先日、郷土史家の先生3人と西尾市吉良町の東条城跡を訪れました。集合場所は駐車場だったのですが、2年ぶりに来ましたのでうっかり通り過ぎてしまいました(;^_^A 吉良氏研究の先生からいただいた昭和31年作成の地形図と昭和63年作成の地形図を見比べると、一部を駐車場として利用している平坦な土地は山を削って造られたことが分かります。私たちは2カ所ある登城口のうち、駐車場に近い方から東条城跡に入りました。

 

 

中世城郭を模 した門をくぐると、右手に八幡社があります。八幡神は源氏の氏神として信仰されましたので、源氏にルーツを持つ中世吉良氏の拠点に鎮座するのはうなずけます。が、吉良氏研究の先生が首をひねるのは、左手にある案内板「東条城の歴史」でした。築城時期は書かれていませんが、中世の東条吉良氏の記述について否定的な見解を披露されました。

 

 

「足利義氏が三河守護・吉良荘地頭となった。その三男義継は吉良荘東条を譲られ、東条吉良氏の祖となった」という記述について、「義継は『足利』か『長瀬』で『吉良』を名乗っていない。東条吉良氏の祖は足利尊氏と弟・直義の不和に端を発した内乱で西条から独立した義貴(一般的には尊義)になり、義貴から5代後の義春の墓が近くにあったと考えられるので、築城は応仁・文明の乱以降と推測 できる」ということだそうです。

 

 

『吉良の人物史』にある「足利義継」を見ても、「義継が吉良東条に住んだことなどを実証する史料に恵まれていない」「吉良荘では義継流の吉良氏についての史料は皆無」「義継については同時代史料がない」としており、謎に包まれた人物です。次回で詳しく触れようと思いますが、義氏の長男とされた長氏(吉良氏の祖)が実は三男で、三男(または四男)とされた義継が次男だったという史料もあります。

 

 

 

さて、案内板からさらに登った所が本丸跡になり、東条城跡のシンボルである「櫓門(やぐらもん)」と「物見櫓」があります。城があった当時の様子は分からないため、鎌倉時代の絵巻物(一遍上人絵伝)などを参考に再現したそうです。城郭研究の先生は「中世の城は居館程度のもので、立てこもって戦うような機能は備えていなかった。戦いは野戦で決着を付けていた」と教えてくれました。

 

 

東条城跡での発掘調査は一度もされていないそうです。西尾市が行う発掘調査の多くは、土地開発予定地で行われるため、東条城跡のような開発行為がない土地では望めないようです。とはいえ、新しい『西尾市史』を刊行する構想があるそうですので、最初で最後の発掘調査をしてみてはいかがでしょうか。そのためには行政の協力が欠かせませんので、郷土史研究に理解のある政治家さんが多く現れることを期待します。

 

 

【警鐘!!】武将の安眠を妨げる土砂採取

 


ところで、東条城跡というと、私たちが登った「古城公園」と呼ばれる丘陵を指すように思われがちですが、実は東西に抜ける県道を挟んだ北側にある丘陵も城の領域に入ると考えられています。しかし、北側の丘陵は合併後、半分近くを旧幡豆町の業者が行う土砂採取のために削り取られています。吉良氏研究の先生は「旧吉良町で史跡に指定して守るべきだった」と嘆かれました。

 

東条城本丸跡から見た北側の削られた丘陵

 

本丸跡にある案内板の一つ「旧法応寺」には「東条城北側の丘上には、かつて康忠山法応寺が所在し た。法応寺は永禄年間に吉良氏落城後の東条城に入った松井忠次(後の松平康親)が、主君の東条松平氏追善のために建立した寺。法応寺は昭和30年代に廃寺となった後、土砂採取が行われたため景観は一変している。寺の裏手には松平康親の墓所が現存していたが、平成23年に康親の顕彰碑とともに吉良町岡山の花岳寺境内に移築された」とあります。

 

 

土砂採取前の法応寺跡にあった東条松平家墓所(『吉良の人物史』から)

 

 

法応寺跡には松井忠次の墓のほか、東条城最後の城主となった松平家忠、家忠の父忠茂、母いさ姫(忠次の妹)の墓もあったそうです。実際に登ってみると、巨木が軒並み切り倒され、跡形もありませんでした。吉良氏研究の先生は「旧吉良町は保存に向けて粘ったようだが、合併後、土地を売りたい地権者と土砂が欲しい業者の利害が一致してしまったようだ。しかし、あまりに無残だ」と半ば絶句したようでした。

 

さらに、案内板の記述にもある「吉良町岡山の花岳寺境内に移築された」という点については、先生3人とも「花岳寺は墓所に眠る4人と関係ないので、花岳寺に移築するのはおかしい」という意見で一致しました。「松井氏の先祖の墓がある吉良町小山田の正龍寺に移築するのが妥当」ということだそうです。花岳寺に移された経緯についてはあれこれ言われておりますが、真相は分かりません(としておきましょう)。

 

業者によって変わり果てた東条松平家墓所跡

 

 

返す返すも無念さが募る法応寺跡。東条城最後の城主とその両親・伯父の安眠の地は、史跡指定など法の網で守られなかったばっかりに、無遠慮な業者によって変わり果ててしまいました。背に腹は代えられない業者の事情もありましょうし、法の範囲内で土砂採取をしているのなら結構ですが、よりにもよって若き日の徳川家康を近くで支えた武将が眠る地を荒らさなくてもよいでしょうに。たたりの起きないことを祈るばかりです。