先日、西尾市内の古書店で見つけた『三河地域史研究』第14号(1996年)に、町田有弘さんという方の「参河吉良氏の起源―足利氏の入部以前―」という論文があり、興味深く拝読しました。その中で町田さんは「平安末期の三河国に吉良氏を名乗る伊勢平氏の一流『平姓吉良氏』が存在した」と主張しておられます。

 

歴史上に「吉良荘」が登場したのは1159年で、藤原忠通の長女・皇嘉門院が領有していたと伝わっています。その後、所有権は、皇嘉門院→九条良通→九条兼実→宜秋(ぎしゅう)門院→九条道家→一条実経(さねつね)→九条忠家と、12世紀半ばから13世紀半ばまでの約100年間に領主の変遷を繰り返しました。

 

 

後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討滅を図って敗れた1221年の承久の乱後、三河国の守護に任命された足利義氏が、吉良荘の地頭も兼ねて実質的な支配を進め、荘の川を挟んだ西半分「西条」と東半分「東条」にそれぞれ城を築いたと伝えられています。義氏の長男・長氏の子孫が吉良荘を治め、「吉良氏」を名乗ります。

 

 

町田さんは吉良荘が足利氏の入る前から存在する点に着目し、「足利氏はいわゆる『開発領主』ではなかった」と指摘。足利氏が入る前の吉良荘にどのような勢力があったのかについて、新行紀一さんの研究を参考に、伊勢平氏の系譜やその中にみられる「平姓吉良氏」、『吾妻鏡』にみられる吉良氏を考察しています。

 

 

論文では系図集『尊卑分脈』から抜粋した平氏系図の中で、清盛を輩出した伊勢平氏の流れをくむ中にある「貞国」に「渡津五郎」という名乗りが記されており、「渡津(わたむつ)」と呼ばれる地が現在の豊川市御津町にあったことを指摘。さらに、貞国の子息である遠衡(とおひら)に「住三川国吉良」という記載がある点に注目しています。また、遠衡の子息とされる行衡に「吉良五郎」という名乗りが乗せてある点も示しています。

 

 

源頼朝の友人とされる公卿・吉田経房が書いた日記の中で、1183年12月に経房のもとを訪れながら名前を失念した人物に関する注記として「三河平氏也、国平男」「号木良先生」とあることから、町田さんは「『三河平氏』とあることからも、この『木良』が『吉良』であることが明らか。この吉良先生を名乗る人物こそ吉良荘の在地領主たる平姓吉良氏の確実な史料上の初見」と明らかにされています。

 

 

さらに、『吾妻鏡』の中で1240年に「吉良大舎人助政衡」が現れ、「衡」の字があることから彼が平姓吉良氏に属する人物と指摘。このほかにも「吉良五郎」を名乗る武士が幕府に出仕しており、この時期に足利氏の一族で「吉良五郎」を名乗れたのかと問題提起しています。町田さんは足利氏の一門が吉良氏を名乗るのは鎌倉後期まで下ると見ていて、吾妻鏡の吉良氏はすべて平姓吉良氏だと判断しておられます。

 

 

ところで、町田さんは論文の中で触れてみえませんが、吉良荘で「平遠衡」といえば西尾市一色町の赤羽別院付近にあった「赤羽根城」の城主だったと伝わっています。が、1656年に書かれた『西尾草創伝』にあるもので、一級史料にこの事実が見られないため、伝承の域を出ないようです。遠衡は源氏の天下になると鷲尾姓に改め、しばらく子孫が城を治めていましたが、1335年の中先代の乱で遠衡から5代目の時秀が戦死し、子の時助が多米村(豊橋市)に隠れ住んだとも伝わります。