戦国時代の吉良氏については豊富な研究成果があるものの、そのほとんどが近世史料に基づいた歴史像だということで、新編西尾市史執筆員の谷口雄太さんが当時の史料のみをもって迫った実態を紹介します。

 

【室町時代】で紹介した通り、吉良氏にとって重要な経済拠点だった遠江浜松荘は、遠江斯波氏と駿河今川氏による争乱に巻き込まれ、吉良氏は京都での幕政奉公を断念して対応しましたが、最終的に今川氏によって召し上げられる形になりました。京都も浜松も失った吉良氏は、本拠地である三河吉良荘で戦国の荒波に立ち向かうことになります。

 

今川氏によって浜松荘を召し上げられた吉良氏ですが、その後は今川氏と良好な関係が続きます。このことは、今川氏親の“嫡女”が吉良義尭に嫁いでいることと、今川氏親が吉良氏一族の高僧だった琴渓承舜を善得寺住持に迎えていることから裏付けられます。琴渓承舜は太原崇孚(雪斎)と今川義元の師匠でもありました。

 

 

ところが、1549年に今川氏が吉良氏の西尾城を攻略しました。なぜ今川氏と吉良氏が争うことになったのでしょうか。まず1546年に今川義元が三河に出陣します。これに対して1547年、尾張の織田信秀が三河に出兵して松平氏の安城城を落とすと、西三河では織田方につく勢力が拡大していきます。そうした中で西尾城の吉良氏も織田方になっていました。

 

 

吉良氏と織田氏を結んだのが、吉良義安の母方の祖父である後藤平大夫でした。しかし、翌1548年、今川氏と織田氏は岡崎を舞台にした小豆坂合戦で激突し、織田氏が敗れます。こうして1549年、吉良氏は織田方になっていたわけですので、今川氏は吉良荘に攻め入り、軍師の太原崇孚雪斎が書いた降伏勧告の矢文を西尾城に射込みます。

 

 

矢文によると、今川氏は吉良氏に対して中立を守るよう伝えていたらしいですが、吉良方の軍勢が織田軍を助けたり、吉良氏当主が尾張の斯波氏の娘と結婚したりといった、今川氏に敵対する態度をとがめると同時に、これは吉良氏当主ではなく後藤平大夫の悪巧みだろうから後藤を処罰するようにと求めています。この矢文に西尾城内の吉良方がどう反応したのかは残念ながら伝わっていませんが、今川軍に降参したのは間違いなさそうです。

 

 

さて、その後の1555年、西三河では今川氏に対する抵抗運動が活発になる中、吉良氏(義安)は再び、西尾城で今川氏に対して反乱を起こしました。この時の状況は2009年に見つかった今川義元の手紙に書かれています。それによると、反乱の首謀者は吉良氏重臣の大河内氏や富永氏でありました。彼らは長三郎という義安の弟を人質として緒川水野氏へ送り、緒川・刈谷の水野軍を西尾城を入れました。

 

 

1556年には織田信長が三河国荒川(今の西尾市八ツ面町あたり)に進軍していますので、反今川だった吉良氏の重臣たちは前回の反乱と同じく、尾張織田氏と結んでいたのかもしれません。今川義元は手紙の中で「いったい何が不満なのか理解できない」と述べています。義元は吉良荘内のことごとくを放火し、200人余りを討ち取るという厳しい姿勢で反乱を鎮圧しました。

 

 

余談ながら、この義元の手紙にはもう一つ重要な歴史的意義があり、実は「西尾」という地名が初めて登場する文献でもあります。手紙には「西尾」「西尾城」という言葉が登場します。西尾城は鎌倉時代に足利義氏が創建したと伝わっていますが、これは江戸時代初めの記録にある内容で、今の西尾市歴史公園にあった西尾城がいつ築かれたのか、確かなことは分かっていません。そこから考えると、不確かな情報ながら今川義元が今の豊橋に当たる今橋を吉田に改めたと伝わることから、西尾も義元が攻め取った時に名づけられたのではないか、とみる研究者もおられます。

 

 

さて、西尾城が攻略された後の吉良氏(義安)ですが、1557年に今川義元が三浦元政に西尾在城のための知行を与えていますので、これ以前に義安の身柄は西尾を離れ、駿河の薮田へ幽閉されたと考えられています。こうして、最後に残った三河吉良荘までも失った吉良氏は、ここで鎌倉以来330年余にわたる領主としての歩みを終えるのであります。

 

  

 

――と、ここまでが当時書かれた確かな史料から裏付けられる吉良氏の歴史です。この後、吉良氏と斯波氏が上野原(今の豊田市南部)で和睦会見をしたとか、吉良氏菩提寺である実相寺が織田信長の兵火で焼失したとか、吉良義安の弟の義昭(よしあきら)が今川方として東条城に立てこもり、若き日の徳川家康と戦い、敗れて三河国外に退去したとか、そういった歴史が知られていますが、いずれも江戸時代の史料に基づく話であるため、研究者の間では慎重な取り扱いがされています。