こんにちは。

今回は、仕事で必要な意識や精神、能力は、聖書の教えに基づいており、聖書(世の諸教会による偽福音の根源となったパウロの書簡を除く)の内容が普遍的に正しいことをお伝えします。

 

この記事を読めば、以下のことが分かります。

 

甲、仕事ができる人におおよそ共通する事柄

乙、仕事ができる人に当てはまる特徴は善であり、聖書の教えや聖書に記録された義人たちに含まれる要素である

丙、小手先の方法だけ求めるなら決して分からないこと、聖書の学びと実践で初めて理解できる物事

 

 

世間では新年度が始まっておよそ二か月が経ちました。特に、会社、役所、各組織に所属して働く人であれば、春の転勤・配属替えや新規入社で新しい環境に身を置き、中には業務上で悩みを持つ人も少なくないと思います。多くの人にとって、仕事は日常生活の中で大きく部分を占めており、悩みを放置したくないものです。仕事に関する人々の関心がとても強いのか、昨今のインターネット上では、心理相談員(カウンセラー)、経営者、社労士、人材情報系企業、あるいは個人の経験による、「仕事を上手くこなしたい」「仕事の人間関係を改善したい」等の悩みを解決する記事が山ほどあると分かりました。それらの記事に書かれてる情報の大半は有益であり、業務上だけでなく生活の様々な場面にも応用できるものです。しかし、提示されてる解決方法が、必ずしも自分自身に当てはまるとは限りません。また、根本的な原因を無視したその場凌ぎに過ぎない場合も有り得ます。

一方、聖書では、気休め程度の耳触りが良い内容を説いてるわけではなく、全人類に必要となる根本的な内面や性質を説いています。読者の悩み解決を意図した数々の記事で紹介されている方法の多くは、元をたどれば聖書の神の律法や主イエス・キリストの御言葉等の内容に関わっています。すなわち、聖書が人間に必要な要素を網羅してるということです。

聖書の内容に関して、一切の偏見に基づかないことと情報の正当性を保証します。醜悪な欲望と欺瞞に満ちた既存宗教(カトリック、プロテスタント、正教会、モルモン教、エホバの証人 他)の悪影響も受けずに論理的に聖書の内容を示す「真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)」から学び、自らも聖書全体を通して読んで学んできた経験に基づいてるからです。せっかく当記事に目が留まったのであれば、普通では得られない新たな視点を得るきっかけにして欲しいと願います。

 

 

仕事ができる人 仕事ができない人 

 

仕事で求められる意識や力は、仕事ができると言われる人なら持ち合わせてることでしょう。そこで、当記事では「仕事ができる人」の特徴として挙げられてる例を抜粋し、相当する教えを聖書から紹介します。

仕事ができる人は、他者からの信頼も得られやすく、多くの人が目指したい姿だと思います。職業や業種によって求められる能力は様々ですが、仕事ができる人の内面は職業関係無く共通するものであると分かりました。そのほとんどが、人間として好ましいと普遍的に思われる要素ばかりです。複数のサイトを参照するに、とりわけ共通する項目は以下の七つです。

 

一、決断力や行動力がある

仕事ができる人が持つ特徴として、まず、決断力や行動力がある人です。こちら(すぐやる・続ける・切り替える)では、決断力と行動力の密接な関わりが紹介されています。日常の様々な場面で時間や機会は待ってくれず、優柔不断で居ると時間を無駄に使ったり、機会を逃したり、損害を被ることもあり、仕事でも円滑な進行を妨げます。

聖書では、「行い」の重要性が至る箇所で示されています。義人たちも優柔不断にならず決断と行動に移りました。その根源として、神の律法には、神(律法の書はモーセが仲介した)が命じる律法、掟、戒めをすべて忠実に行うことが必要と明示されています(申命記五章三十二節ほか参照)。愛が根源たる神の律法を守るのに迷う必要は皆無です。願掛けするようにただ祈るだけ、心の中や口先だけ善良ぶっても行いが伴わなければ全く無意味ということです。一世紀のキリスト者だったヤコブも、生活に欠かせない衣食に事欠いてる人に対して温まって満腹するまで食べるように勧めても、実際に本人が何も与えなければ全然役にも立たんと説明しました(ヤコブの手紙二章十五節~十六節参照)。結果を変えられるのは、各人の思いではなく各人の行動です。そのことを分かり易く示されてると感じます。仕事で成果を上げる人も、行動の重要性を知ってるのだと思います。良い意味でも悪い意味でも、行いによってあらゆる状況は変わるのであり、神が行いによって人間それぞれを裁いて運命を決すると繰り返し聖書で予告しておられる意味が理解できます。聖書を学んで生活に取り入れることで、行いで示すことや行いが人間の本質を表すと、初めて心から納得できました。個人的に、行いの重要性を知って、偽善や詐欺にも賢明に見極められつつあります。

 

二、自律・自制ができる

仕事ができる特徴として多かったもの二つ目が、自律ができる人、自制ができる人です。自分を適切に律して制御することができれば、望ましい結果に繋がります。計画的で適切な時間の使い方によって気持ちにもゆとりを持った行動ができたり、自身の感情に振り回されずに冷静で論理的に思考できたり、失敗しても気持ちをすぐに切り替えられたり、体調を整えて効率的に作業ができたりします。時間を無駄に使えば思うように仕事が進まず、成果なんてとても出せませんし、心身が健全でなければ作業に大きな悪影響を及ぼします。時に体調を崩してしまう事態は珍しくありませんが、多くの原因は不摂生な食事や生活、休養の不足、すなわち自身の行動に原因があります。外的要因ばかりではありません。

時間を適切に使うには、先に時間の価値を理解する必要があります。「時は金なり」という言葉があるように、湯水のように湧くわけではないお金を普通は無駄遣いするのを躊躇するのと同様、時間の大切さを心から理解すれば時間を無駄遣いしなくなると思います。仕事でも、納期、顧客等との約束時間、時代の流れが待ってくれるわけではないですね。聖書では、旧約聖書の「コへレトの言葉」から、人間の生涯の儚さと本分が複数の事例から書かれており、ヤコブの手紙ではそもそも我々には「明日」すらもあるか分からない、少しの間現れてはすぐに消される蒸気のように儚いことが説明されています(ヤコブの手紙三章十四節参照)。個人的な話ですが、以前は漠然と自分が老人になるまで生きることを想定し、「人生長いから」と思い、時間を有効に使おうという意識はとても薄かったです。死ぬには若すぎる年齢で亡くなった人の事例を見聞きしながら、根拠も無く自分には「明日がある」と思い込んでたのは恥ずかしいと今では感じます。しかし、聖書に出会い、学び、時間への捉え方が大きく変わりました。聖書によって人間の儚さを知り、主なる神の時間軸と比較した人間のあまりの小ささを知り、少しずつでも自律して時間を有効に使えるようになってきていると実感します。学校の古文の授業で「無常観」に触れた題材の文章を読んだ時とは比べ物にならぬ程に。

また、絶対的な神の秩序であり善悪の基準ともなる律法を守って善行をするには、自制という行動が必要であると分かります。以下、その意味が分かる文章を引用します。

 

自制とは、「自分で自分自身の感情や欲望を抑制すること」です。これも非常に重要な「行い」や。「罪とは法を無視して違犯することです。」(ヨハネの手紙一 三章四節拙訳)という聖句は既に多くの過去記事で引用してきたとおりで、これだけ繰り返し言うても未だ罪の定義を理解してへん愚か者は地獄行き確定です。ヤコブの手紙一章十四節〜十五節でこれに関する言及があり、自らの欲望が誘惑に陥る契機となり、罪を犯す元凶、即ち、律法違犯をする原因となる。せやから、それを抑える必要があり、それも自分自身で為す必要がある。他人から制されるようでは、もし制する存在が無ければ、その人は自制でけへん故に罪を犯すやろ。せやから、その人自身に問題があるということになり、悔い改めが出来ておらず、死後の裁きの場で主イエスから弁護されず、神の王国に入ることを拒否される羽目になる。罪を犯すことを自制でけへんような人間は、永遠の命を受けるには相応しないからや。

神の律法に違犯することの根本は、すべて自制でけへんことに直結してる。罪を憎まず、罪を愛してるから律法で禁じられた悪い行いをしたり律法に従わずに違犯するんやろ、偽使徒パウロの信者どもよ。罪に限らず、様々な悪い行いは自制でけへんことと関係してる。

(引用元:キリスト者の成長に必要なこと | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)

 

すべて悪事は、人間自身の悪い思いや欲によると、主イエス・キリストから直々に学んだ使徒ヨハネが明言しています。単に自制心を鍛えるにはどうしたら良いのか…と悩むだけでは絶対に辿り着かないことです。自制心が無く、嫌なことはすぐに投げ出す無責任さ、物事が続かないといったことも、根本的には邪な思いがあるからだと言えます。この時間に仕事あるいは勉強をやると決めたのに、娯楽の誘惑に負けて少し怠けてしまったとかであれば、誰かに嘘を言ったわけでもないならば神の律法に違反してるとは限りませんが、それよりも嘘つきや性欲に負けて淫行にふける等の律法違反を行い、不信仰で神の御指示に従わない方こそ致命的で、自ら今後の運命を絶望に置くようなものです。「自制心を養う方法」と検索すると、自制するための方法を端的に解説しているサイトはそれなりにあります。確かに言ってることはその通りであり、参考にはなるのですが、小手先の方法で少しは改善できたとしても、内面から根本的に改善するのは非常に難しいでしょう。自制できない根本原因とその結果を、数々のサイトからでは知り得ないからです。このことを学ぶ媒体は、聖書しかありません。

 

三、現状把握、分析、改善

仕事ができる人間の特徴として多かったもの三つ目は、現状を把握、分析して改善できる人です。仕事でも、日常の多くの場面でも、計画、実行、評価、改善の四段階を繰り返してより良い結果に繋げることは大事だと言われています。計画に問題があれば相応しい行動はできず、適切な計画を立てるためにも現状把握や分析をして課題、問題点を正しく理解することが望ましいです。特に、自分自身の課題を正しく理解するのに重要な要素は、自分を客観視することだと考えられます。

余計な自我に囚われずに自分の課題を見つけられる人は、悪意が無い人だと思います。無邪気さの重要性は、聖書の至る箇所で見られます。例えば、「蛇のように賢く、鳩のように無邪気(無害、悪意の無い、潔白)であること」(マタイによる福音書十章十六節参照)、「然りは然り、否は否と言うこと」(マタイによる福音書五章三十七節参照)(←明確に真っ当なことに対して。口答えとかはしない。)と言われており、神の律法に対して勝手に付け加えや削減をせずにすべての掟を守ること(申命記四章二節、四十節ほか参照)も素直な人でなければ実行できません。

 

四、目標が明確、高い意欲

仕事ができる人の特徴として多かったもの四つ目は、高い意欲を持ち目標が明確である人です。仕事ができる人は、項目三つ目で触れたように、自身を正しく理解でき、相応な目標を明確に決めて行動できるので、高い意欲や動機を持てると考えられます。

主イエス・キリストは、我々人類と全く同じ性質(人性)を取りながら、人間が生まれながらに持つあらゆる欲望や自我や弱さに勝利し、我々のために無償で十字架の贖いを成し遂げてくださいました。我々人間も、自らの欲望と悪魔の誘惑による罪(神の律法違反)を完全に改め、慈愛による無償の善行が行える程度になるのも決して夢じゃないと示されています。また、主イエス御自身が行動で示されたからこその言葉の重みがあります。決して簡単な話ではないものの、聖書から明確な目標があり、その品性の偉大さを理解し、そこに到達しようと高い意欲が生まれると実感します。また、一つ一つでも課題を克服していける喜びはとても大きいものです。主イエス・キリストという目標、模範については、過去記事で幾度も言及いたしまして、詳しい内容に関してはご自身で聖書を確認していただきたいと思います。

 

 

五、論理的

仕事ができる人の特徴として多かったもの五つ目は、論理的な思考や説明ができる人です。「論理的」というのは、論理に適ってきちんと筋道立てて考えるという意味です。筋道が立てられることにより、感情や主観に邪魔されず、他者と認識のズレを生じない意思疎通や説得力があって信用に値する説明が可能になるでしょう。更には、的確な分析や課題発見にも繋がります。

聖書では、一見感覚的に思える内容でも筋道が立っています。主イエス・キリストや過去の預言者達は、自身に敵対する人々に対し、律法や数々の言葉を適切に引用して冷静に問題点を指摘しており、実に論理的な主張をしていたと読み取れます。「言は神であった」(ヨハネによる福音書一章一節)等と言われてるとおりです。

カルト宗教や占い師や予言者らは皆、客観的な根拠を用いて筋道立てて物言わず、不確かで出鱈目ばかり言います。そして、きちんと事実確認をせず、「言われてみればそうかも」と簡単に信じ込む浅はかな人々がカモとなり、彼らのような詐欺師が美味しい思いをします。しかし、繰り返しますが、聖書での神や義人の教えは客観性に基づく信頼できるものです。以前、親戚から創価学会の勧誘のヤバい実態を聞いたことがあり、それがとても印象強く、わしは何かの特定の対象を信じることへの恐怖心がありました。しかし、聖書を実際に通して読んでみると、多くの書がありながら大元の主張は一貫しており、筆者の変な主観も入ってないことに驚きました。何より、「真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)」に出会って、聖書に対して持ってた偏見が自分の中から消え去り、素直に内容を吟味できたのが吉だったと心から言えます。「真の聖書福音と預言」の管理人のミカエル氏が、聖書の内容を述べる際に必ず根拠となる聖句を挙げ、筋道立ててありのままを説明しているお陰です。

※ミカエル氏を「根拠も無く勝手なことを言ってる人だ」と主張する者が一定数居るようです。しかし、彼らこそ、何故自分の意見が正しいのかの正当な理由や裏付けがありません。もれなく敵対心や悪意に基づいており、感情的かつ支離滅裂であり、彼らに同調するのは危険です。

 

六、成果を求める

仕事ができる人の特徴として多かったもの六つ目は、成果を求める人です。仕事ができる人と言えば成果を出せる人でもあり、そもそも各人が成果を出すことを求めないなら成果を出すのは有り得ないと容易に分かります。「誰もが求める者は受け、探し求める者は見つけ、戸を叩く者は開かれる」(マタイによる福音書七章八節参照)とあるように、万事においてまず熱心に求めて行動することが必要です。

成果を求めることに関連して、聖書の福音書では「タラントンのたとえ」(マタイ二十五章)と「ムナのたとえ」(ルカ十九章)という主イエスによるお話が書かれてます。三名のうち二名は自らに与えられたものを活かして結果を出した一方、一名は自分さえ良ければと考えて怠けて神の御意志を実行しませんでした。その結果は絶望的なものです。世間でも、自分のことばかり考えて有益な行動を取らない人間は嫌われます。他に注目すべきは、それぞれ神から預かった数量が異なることです。周囲を見ても分かるように、人間各自が全く同じ役割や能力を持ってるわけではありません。たとえ能力が他の人よりは劣ってるとしても、その人が無価値なわけではないです。人間各自の能力等の源は神が備えてくださったものだと理解すれば、他者と比べて卑屈になるのも、他者を自分より劣ってると看做して莫迦にするのも、非常にくだらんと思えるようになります。我々が自分の能力を見極め、最大限生かすように努めながら、能力や環境に応じた成果を出すことが求められています。使徒ペトロも、神のさまざまな恵みの善い管理者として各自に与えられた賜物を最大限活かすよう教えています(ペトロの手紙一 四章十節参照)。たとえ話で、三名のうち怠けた者には最初から最も少ない数量しか与えられなかったように、そもそも神(イエス・キリスト)に素直に従う者でない者には十分な力が与えられないのでしょう。成果を求めるにせよ、神への感謝の念を決して忘れずに日々過ごすことが望ましいです。

 

七、他者への気遣いができる

仕事ができる人の特徴として最後は、他者への気遣いができる人です。

他人に対して下心無しに気遣いができる人は、挨拶といった人として当たり前のことを当たり前に行い、相手の立場になって思考や行動をし、他者とのやり取りが円滑に進みます。また、礼儀を弁え、礼儀作法もその意義を理解して実践できるでしょう(但し、「礼儀作法(マナー)」の全てが正しいわけではない)。他者への純粋な思い遣りの源には、隣人愛があると言えます。反対に、自己愛が強い人はほぼ例外なく他人への関心が無く、思いやりも気遣いの行動も欠如しています。

聖書に書かれた神の律法や主イエス・キリストの御言葉の内容は全て、神への愛と隣人愛に基づいています(マタイによる福音書二十二章三十九節~四十一節参照)。「隣人を虐げるな」、「利子を取るな」、「復讐するな」、「耳や目等に障害ある人を悪く言ったりするな」といった掟はすべて、同じく被造物たる人間への愛があるからこそ守れます。創造主なる神を畏れる(レビ記十九章十四節ほか参照)なら、他人を差別するとか、恨めしく思うとか、とても恐れ多いことだと思うようになるでしょう。ですが、他者を何でも肯定するのではなく、法に照らして他者が間違っていたら軌道修正するように戒めたりするのも必要です(レビ記十九章十七節)。主イエス御自身が、地位ある者らに決して媚びず、誰であれ率直に戒め、弱者を憐れまれました。まさに律法どおりの生き様を体現されました。

 

 

方法論に頼っても、聖書から学べる事柄には全然及ばない 

 

今回の記事では、広く紹介されている仕事をする際に持つのが望ましい意識と能力、特に「仕事ができる人」と言われる特徴を題材としました。よく分かるのは、それぞれの特徴が密接に繋がっており(例:客観視が的確な決断に資すること)、その望ましい性質を表す内面こそが重要であることです。内面が汚いまま見せかけだけ取り繕っても、苦痛を感じて長続きしないといったことが、確かに証明しています。当記事では、該当する内容を聖書から挙げてみました。貴殿にとって、聖書が「宗教の教典」なんかではなく、我々人間が生きる上で重要な教えを示してることに気付き、学んでみるきっかけになれば幸いです。

聖書が単に収入を得るための仕事で役に立つ方法を教えているとか、世俗社会で成功を収めるための小手先の方法やら、当てにならない精神論を教えてるわけではありません。敢えて言うなら、自分自身のためよりは神の御心のため、他者への益に繋げるための能力及び意識向上です。また、誤解して欲しくないこととして、当記事では収入を得るための仕事にまい進すべきと申してるのではなく、あくまでも聖書が人間を相応しく成長させるのに必要不可欠であると示すことが主旨です。近頃、当ブログでは、身近な話題を用いて聖書の内容を紹介したりしています。当ブログを読んでくださる方々にとって、少しでも聖書を自分にも関係のあるもの、身近なもの、価値あるものと認め、学んで生活に反映させるように行動して欲しいと考えてるからです。情報を適切に取捨選択できるなら、「仕事ができる人の特徴、それを目指す方法」等と書かれてる巷の各サイトを見て参考にするのは問題無いと思います。しかし、本気で自分を変えたいと思うなら、聖書を学ぶことを強く推奨します。

 

 

世間では得られない、聖書を理解してやっと得られる事柄 

 

まず、聖書の理解により、人間の性質や世のしくみに関する疑問を解消できるはずです。こちら(日本経済新聞)より、太陽暦五月下旬の時点でもマイナ保険証の利用率が六パーセントと著しく低く、多くの人が全く必要性を感じてもない、相次ぐ問題や個人情報の漏洩で不信感を持ってるのに、日本政府は健康保険証廃止の動きをやめないですね(更には運転免許証まで一体化させようとしている)。「資格確認書」なんか不要で、単に不要ってだけでなく、これまた事務的手続き他無駄に莫大な税金が使われるでしょう。個人情報は高く売れるようで、それにつけ込む拝金主義者が居るのでしょうけれども、一度流れた個人情報は元には戻せません。致命的です。それでもごり押ししたいのは、以下の理由があるからです。

 

日本人の問題点 四 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)を参考に作成

 

これらは決して陰謀論ではありません。↑の参考サイトから、実態が詳細に分かるので、一度よく読んでください。また、新世界秩序推進の先頭に立つ米国、その背後のバチカンや偽ユダヤ人らの圧力があるのか、憲法改悪への言及もしつこく行われています。自民党ら既存政党が言ってる改憲案は全て、基本的人権、国民主権、平和主義を著しく制限し、日本全体の戦前回帰、ナチス化に繋がる極めて危険なものです。

 

【おもな内容】

〇憲法の意義

〇現憲法にも瑕疵はあるが、改憲草案に賛成する理由は一つも無い

〇巧妙な改憲の誤誘導への対策方法

〇改憲が憲法改悪であると分かる決定的な背景 等

法の専門家(弁護士等)ですら気付かず教えない事実の詳細はこちら↓

 

隣国の支那や北朝鮮を全く笑えない状況なのに、未だ危機感を覚えて抵抗する人が少ない状況です。相次ぐ増税、気休めにもならぬ減税(のふり)、政治資金、裏金の件で国会議員たちが居直ってることに腹を立ててる人も多いかと思いますが、ここまで公務員たちをやりたい放題させてるのは、国民の大多数が暮らしを守る為の行動をほとんどしないからと言えます。身の周りでもインターネットやSNS上でも、努力と試行錯誤を重ねて業務及び経営を軌道に乗せてる人、効率的に賢く仕事をこなす人、本質を突いた鋭い視点を持つ人、誠実に仕事に取り組む人、と有益な要素を持ち合わせた人が存在しています。学習や自己研鑽を重ねながら、自分の仕事に誠実に取り組んで成果を出してる人は、傍から見て格好良く見えるものだと思います。それを国民の人権や自由を守る為の不断の努力(日本国憲法前文および第十二条より)にも使うべきなのに…。一度人権や自由を失ったら元には戻らないですし、自らの能力を存分に発揮する機会も失われてしまいます。しかし、肝心な点に気付かないのは、大多数が政治家と同類の悪人であり抵抗する必要性を感じないからだと思います。最大の原因として、人々が聖書を読まず、神(主イエス・キリスト)を知ろうともせず、自身の能力を正しく用いず、悪人に都合良く動かされるからです(悪人に都合が良い駒であると気付かない)。すべて人間にとって好ましい事柄の根源には、慈愛、心からの思いやりがあり、外面を取り繕っても無意味であり内面こそ磨く必要があり、それは聖書から得られるものです。

また、この世での成功を求める必要は全く無いと聖書から分かります。収入を得るための仕事に時間や労力をつぎ込むとか、まして日本にとりわけ多い社畜と化して精神的にも追い詰められれば、人として重要なこと(特に、内面に向き合うこと、聖書の学びと実践)を考える余裕を失います。この世での成功を求めるばかり、人としての正しい道を逸れる可能性があります。人として何が本当の「成功」なのか「失敗」なのか、詳しく知りたい方は「成功するためには(真の聖書福音と預言)」を参照してください。大金持ち、地位の有る人、あるいは社畜では気付かない事柄が分かり易く示されており、すべての人に関わるものです。「人間の目に正しい道でも果ては死」(箴言十四章十二節、十六章二十五節参照)のように言われてるとおり、人間が正しいと捉える道が必ずしも正しいとは限りません。この世の成功を求める人もこれに当てはまります。そもそも、大抵「成功」の定義からして間違ってるからです。富や権力や支配ばかり考える悪人が多い世の中において、火を見るより明らかです。仕事にまい進しても、所詮は短い人生の間の糧にしかなりません。しかし、聖書を学び、研究し、理解し、実践して福音伝道や奉仕活動といった善行を真心から行い続けるなら、一生の朽ちない糧となります。神の律法、掟、戒めに則った生活を生涯し続けるならば、この世が本物ではないと確信し、世俗社会がどんなに悪化しようとも悪に負けず、正義を貫く故に最悪殺されても復活し、キリストの再臨後に新しい天と地で憩うという確かな希望を持って生涯を全うできます。

 

これまでの貴方自身が「仕事ができる人」ではないとしても、聖書から変えることができます。小手先の方法に頼って一喜一憂するより余程ためになるはずです。今までに、たとえ他者から自身の能力を見くびられてたとしても、他の人間からの評価が直接自分自身の運命を決めるわけではありません。最も絶望的なのが、神の律法、掟、戒めに反した生き方をして(=神に反逆し、嘘つきで人殺しである悪魔に似た者)神から役に立たないと判断され、地獄行きになることです。仕事で成功したとかは無関係です。

神の律法、キリストの教え、義人達の言葉を正しい前提で物言いしてることに違和感を持つ人も居るでしょうか。確かに、聖書の内容を知らなければ、その正しさを理解することは不可能でしょう。しかしながら、聖書が信用ならんと勝手に思い込む(食わず嫌いのようなことを思う)前に、まずはご自分で読んでみてはいかがでしょうか。聖書を心から理解する人(パウロ狂信者の集まりである、カトリックやプロテスタントをはじめとする諸教派の人々、あるいは律法主義者は該当しない)が少ないのは致し方ありませんが、大多数が聖書の価値を見出ださずとも聖書の価値が失われるわけではありません。

今回、我々にとって非常に身近な「仕事」の視点から、聖書の内容が普遍的に正しいことを知っていただけたなら幸いです。