こんにちは。

 

今回は、怠惰さについて自分自身の経験から感じたことや考えたことを交えて、実際それがどれほど恐ろしいかをお伝えできたらと思います。少しでも何かしらの気づきをもたらすことができれば幸甚です。

 

今回そんな内容にした背景は、人間とは我々が思っちょー以上に楽をしたがる傾向にあり改善しようと思ってもしつこく残る性質の一つであり、日々の生活の多くの場面において怠けることによってつけが回ってくるであろうし、信仰生活ではよけいに大きな荷物であると考えたことです。そして、わしにもその性質が残っており(以前よりマシにはなったかな…とは思いますが…)、この記事を書くことで再度自戒もできたらいいなと思った次第です。

 

 

周りの人々や自分自身の内面を見ていて思うのは、やはり大半の人々が怠けて楽をしたいと考えるということです。学校の勉強でも、(学校によるとは思いますが)宿題をさぼってその場しのぎのためにきちんと宿題をしてきた人の解答を写したり、試験勉強をぎりぎりまでだらけて試験の直前の夜とかになって慌てて勉強したり、夏休みの宿題を終わりごろになるまで溜めたりなどする人を結構見ましたし、自分自身も恥ずかしながら予習として問題を解いてくる宿題を面倒だからと後回しにして結局し忘れて他の人にノートを見せてもらうことが少なからずあったと記憶しています。

上記の例は、まだ幸い(?)なことに自分が後でそのつけを払って苦しむだけで済むことが多いですが、これがもっと重大なことだったらいかがでしょうか。誰かが仕事やその他複数人での共同作業でサボればその分を他の人が補わなければならず、やはり怠惰は時に他人に迷惑をかけることになるとわかります。更に、これは日々の学びの過程で得られた認識ではありますが、現在の日本で日本人の庶民が政府や行政等に苦しめられていること、憲法改悪の危機が間近に迫っていること、そして今のコロナ茶〇がバレバレにも関わらず一年半以上も続いていることはすべて、大多数の人々が日々の生活の雑用や仕事や勉強や部活動に追われ空き時間さえも無益な楽しみや娯楽に興じて、国の政治や憲法を含めたこの国の「法」の内容理解や人権意識といったもっと考えるべきことを考えずに放置している、つまり生活するうえでもっと肝心なことを知るのを怠けているのも一つの原因だと考えられます。マスクの有害性に関しても例えばこちら(ナカムラクリニック note)にあるような情報を知ろうともせず、思考停止して猛暑の日でさえ無駄な我慢をしてずっとマスクをつける人が多い有様です。

もし逆に大多数が正しい最低限の報に関する正しい知識を得るように努めてかつ今ある人権や自由を考えることでもしていれば、国や報道機関から発信される情報を盲信せずに一人一人が当事者意識を持って真剣に賢く思考し、それゆえもっと現状が違ったのは間違いありません。そして一番致命的なのが、ほとんどの人が聖書を真剣に学んで実践することを怠ることです。これについてはまた後程述べます。

 

 

怠けることを続けることは、負債をどんどん増やす行為に似ていると考えます。もししなければならないことがあるならそれを怠けた分まるで負債のようにたまっていくし、自分自身の成長もないからです。

 

 

 

【自分自身の 怠惰による報いを顧みて】

一.    努力をするよりもただ楽をして物事を上達させたりこなしたりしたいという思考に陥ること

二.    妥協精神が染みついてしまったこと

三.    いい機会があるにも関わらずみすみすそれを逃してもったいない結果になること

 

当記事をご覧になっている皆様はいかがでしょうか。怠惰による悪い結果振り返ることで、一つ改めるきっかけにできると思います。

 

 

そんな「怠けること」については、わしが読んで学びを受けている聖書に多くの数の戒めの聖句があるので、そのいくつかを見ていきます。

 

怠け者よ、蟻の方へ行け。その行動を見(て熟考せ)よ。そして賢くなれ。

箴言 六章六節(拙訳)

 

怠け者は渇望するが何もない

しかし勤勉な人は豊かにされる。

箴言 十三章四節(拙訳)

 

怠惰は深い眠りに落ちる原因となる。そして怠慢な人は飢える。

箴言 十九章十五節(拙訳)

 

怠け者は収穫期(秋ごろ)の直後に耕さない

収穫期に求めるが何もない。

箴言 二十章四節(拙訳)

 

兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。

テサロニケの信徒への手紙二 三章六節

 

これらのものがそなたらに存在し増大するため、我らが主イエス・キリストの知識のなかで怠惰で実りのない者とはならない。

ペトロの手紙二 一章八節(拙訳)

 

怠けたつけは必ず返ってくることがわかりますし、怠惰であるのは相応しい品性ではないことが読み取れますね。

 

また、怠けて神のために働かないことに対し主イエスは例えを用いて戒めておられます。具体的にはおもにマタイによる福音書の二十四章四十五~五十一節と二十五章十四~三十節、ルカによる福音書の十二章四十一~四十八節と十九章十一~二十七節の内容です。個人的にこれを最初に読んだときは「へー怠けてこんな愚行をするなんてとんでもないアホだな」と他人事のように感じていたと思います。第三者の目から見て、正常な感覚なら悪いほうの僕(しもべ)がいかに愚かであるか実感できるものです。しかし、のちに自分をきちんと客観視すると自分は例え話のなかの「悪い僕(しもべ)」、「一タラントンを預かった者」に近く決して他者のことを言えたもんではないと感じました。かつては「だらけちゃった。でもまあ…今少々怠けていても何ともないよね」と謎の楽観的思考が働いたこともあったくらいですので…。恐らく、世の中の多くの人は怠けることについてそれほど致命的だとは感じていないでしょうし、以前のわしのように、キリスト者を名乗りながらも神の御前でこげな感じでおって神を畏れない態度を取る人が大半ではないでしょうか。ただ、納得できるのは、自分を客観的に捉えることで自身の問題がわかるということです。

探してみると関連した聖句は結構たくさん見つかります。これらからわかるように、もちろん我々人間の世界でも明らかに怠けて他人に迷惑をかける人は疎まれますが、それよりも主なる神は怠惰な人間を一層はなはだしく嫌悪されます。ただ嫌悪されるとかではなく、罪でもあるからです。

 

人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です

ヤコブの手紙 四章十七節

 

もちろん神の目に悪いこと、神が罪と定めておられることをしたり考えたりすれば断罪されるのは当然ではありますが、良いことを知っていながらそれをせんのも罪となるということです。不作為の罪であり、実質怠けたことになるのです。もしすぐには理解できんなら、ちょっと具体的な場面を考えてみましょう。信仰生活においてなら、福音伝道や周知活動や日々の学びをすることが必須とわかりながらせんことが挙げられると思います。あるいは、その他のもっとわかりやすい例で言えば、すぐそこに苦しんで倒れちょー人がおって本来ならその人を安全な場所へ移動させ救急車を呼んでできる手当てをすべきとは思っても実際には助けずに見て見ぬふりをすることでしょうか。それに、日本では日本国憲法第九十九条に公務員の憲法を尊重し擁護する義務があるにも関わらずそれに違反した時には制裁を下せるという内容が含まれる法律の制定を戦後ずっとしてこんかった国会議員たちの「不作為」のせいで国会議員たちは違憲行為を平気で行い日本国民を苦しめています。まあこれに関しては単純な「怠惰」ではないでしょうけど…。

いかがでしょうか、こげして考えてみると、確かに善行の不作為の悪さがわかりますね。

 

 

この世界には、「キリスト教徒」の数がこちらの記事(世界の宗教人口ランキング (toukeidata.com))によると二千八年では世界人口のおよそ三分の一程度であったそうで、現在の世界人口から考えると、およそ二十五億人となるでしょうか。

しかし実際は「キリスト教」を掲げながら完全に異端なもはや別「宗教」とも呼べるカトリックや正教会、もしくはプロテスタントの信者がほとんどであり、聖書に正しく依拠し生活しているキリスト者は本当にわずかと言えます。聖書にも主イエスの御言葉で「狭い門から入りなさい。」(マタイによる福音書七章十三節参照)とあるように真理の道は非常に狭く見出す人も少ないぐらいだとわかるけん、本当の意味でのキリスト者がごくわずかなのは神の御計画のうちに入っているとは考えられますが、それにしても聖書について世の自称聖職者や教師が教える偽りの教義に惑わされる人が非常に多いのはやはり人々が怠惰で聖書を自分自身できちんと学んで理解に努めようとせず他人に依存した結果です。怠惰によって善い行いが十分になせない等の弊害だけではなく、賢い判断ができないゆえに騙されます(怠惰の罪の結果をこの世でも刈り取っている)。だから、上で少し申し上げましたが、聖書を真剣に学んで実践することを怠ることは致命的と言え、個人個人の学びや実践の不断の努力が必要とわかります。

↑世の「キリスト教会」の実態(こげな状態にはならないように…)

 

 

怠惰さによる人間の良くない性質の一つである怠惰さをはじめ、その他悪い自我や肉欲を克服するには確かにある程度自分自身での改善の努力が必要ではありますが、最終的には神の御意志に委ね、祈り求めるしかないと思います。実際にわしも、神への信仰によって、そして自分も主なる神がお選びになったまだ目覚めぬ人を探し伝道を届けて目覚めさせたいたいという気持ちで何とか持っていると感じています。単純に自分本位の理由・動機だけであれば、努力することを好まなかった惨めな自分はおそらく「まあ少しくらいいいかー」で済ませとったでしょうけん。人間のさまざまな短所を克服するために、例えば今回なら「怠惰 直し方」と検索すれば改善方法がいろいろと出てはくるし参考にもなりますが、やはり一番には真心の信仰の力あってこそ自分の欠点さえも補えるということです。

 

少し話がそれますが、ここで、聖書で記録されている主イエスや何名かの義人(主なる神に正しく従った人)たちがどげん姿勢だったか簡単に見ていきます。

 

主イエス

・    直弟子を育て、人々に福音を伝え、適宜癒しを行い、敵対者にも正しい姿勢で厳しく非難されたこと

・    神の御意志であった十字架の贖いの成就

(福音書より)

アブラハム

・    主の御言葉に従い、示された地へ旅立ったこと(創世記 十二章より)

・    神を畏れ、子イサクをささげることも厭わなかったこと(創世記 二十二章より)

モーセ

・    イスラエルの人々をエジプトから脱出させ主なる神がお導きになる場所へ導き、契約を仲介したこと

直弟子たちやイエスの昇天後に活躍したキリスト者たち

・    不断の伝道(時に遠くの地へ)

・    迫害され酷い仕打ちを受けても諦めたりくじけたりすることなく、怠らず主のための働きを行ったこと(おもに使徒言行録より)

 

共通することは、皆が神の御意志を考え、自分の欲求や自我に負けず、かつ怠けることなく神の目に正しいことをひたすら行ったということです。特に、主イエスは我々人間のために本来の人間の正しい生き様を、御身をもって示してくださいました。それに倣うものになれるよう努めていきたいですね。

人間はこの世で生きている間は怠惰さなどの醜い性質との戦いが続きますが、ぜひとも打ち勝ちましょう。

 

 

 

・最後に

海外はさておくとして、少なくとも日本では、学生以外に熱心に自分で「勉強」をする人がとても少ないようです。こちら(先進国一勉強をしない日本の大人。今は自己学習の時代 | IXIO magazine 「一瞬を一生に」 (ixio-magazine.com))を読むと、日本の社会人は世界的に見ても勉強をしないこと、大人も自己学習が大切でありそして学習するうえでの具体的な方法について書かれています。日本の教育が受動的なものだからーといった言い訳をせず、これを聖書の自発的な学びや、わが国の憲法の正しい理解等に応用すべきです。

特に益にもならぬ娯楽や快楽に興じる余裕があるなら、聖書を読んで学んではいかがでしょうか。「宗教の本だ」「キリスト教徒だけのものだ」と決めつける人が多いですが、最初から最後までよく読んで理解できればこのように思うことも無くなると思います。わし自身複数回最後まで読み通したからこそわかります。それに聖書は書店やインターネットの通販で何千円で購入できますが、実際はお金に換算できない程の価値がありますし、それこそ問題なくたびたび服を買ったりおやつを買って食べたり遊技やおもちゃに使ったりできるなら一度の何千円の出費は痛いものではないでしょう。また、キリスト信仰者になるためにその辺にある建物の教会に行って献金等する必要もありません(本物の信仰を持った兄弟姉妹の交流は必須ですが)。お金の心配なんて不要です。聖書をまだ買うまではせんけど試しに読みたいと思えば、どこかで借りたり聖書アプリを使って読んでみたりもできます。

間違った教義を盲信している人が悔い改め、そしてぜひとも怠惰な生活を改めて聖書の真理やキリストへの誤解や偏見を無くし、認識を改めて本物の厚い信仰を持つ人が新たに現れることを祈ります。

 

 

今回もご覧いただきありがとうございました。

 

たくさんの情報や学びを提供してくれる兄弟姉妹に、何より主イエス・キリストに感謝いたします。