こんにちは。

今回は、自分が聖書に出会ってキリスト信仰に入るまでの過去をお話ししたいと思います。自分は人生経験が長いわけではなく、あまり濃い内容ではないかもしれません。

それほどもの覚えが良いほうではなく記憶がぼんやりしとるところもあるのはご了承ください。

 

わしは聖書に出会う以前、特にこれといった信仰を持っていたわけではなく、多くの日本人がするように初詣に行ったり葬式や法事では仏教式のものに参加したりクリスマスなどで普段は食べられない食事やプレゼントを楽しんだりしていました。テレビもよう見ちょって、ゲームも長時間夢中になっていました。物欲は前からそんなに強いほうではなく年を重ねるにつれて別に金持ちにもなりたいとは思わなくなっていきました(食欲は旺盛でしたが)が、基本的な価値観や普段の行いはおおよそ世にいる大衆と同じです。また、人目もよう気にして、なるべく「普通」でいられるようにそげん目立たんように生活し、家族や他人のご機嫌をうかがうことさえあるくらいでした(この人目を気にする臆病さは今でもしつこく付き纏っています)。

簡単にいえば、基本周囲の流れとかに従ってなんとなく生きてきた愚かな人間ですが、中学生の頃からはおそらく周囲よりは人一倍政治や社会的なことに興味があったと思います。それは良かったのですが、わしは自民党を心の中で支持していました。今思えば、なぜこげに汚職や嘘にまみれ、とことん売国行為をし、国民の人権よりも新世界秩序を優先させる恐ろしい改憲草案を示すような組織を支持したのか、不思議でならんのですが…(他の政党も大概ですけどね)。しかし、以前は多少心のどこかで違和感を覚えてはいたこともあったが、自民党はほかの政党なんかよりも日本人のために概ね良い政治をしている、と本気で思っていたことがあったのは確かです。

(自民党改憲草案が見られるのはこちら

ただ、この政治への関心はキリスト信仰を見出すのに直接関係があったのかは疑問です。

高校生の時、たまたま親が買って見ていたある本に出合いました。それは報道や学校等では教わらない世の悪い裏側やこの世の支配には白人の偽ユダヤ人が大きく関わっているということなどについて書かれた内容のものだったと思います。ちなみに、偽ユダヤ人は、「実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである(ヨハネの黙示録 二章九節の一部)」と聖書にある通りです。話を戻して、最初本を見て知ったときは、あまり本気にはしてなかった気がします。ですが、間違いなくその本をきっかけに世間では陰謀論もしくは都市伝説だと軽視されることに興味を持ち始め、そしてこれが聖書に出会うきっかけの一つであったと思います。

もう一つ、聖書に出会うきっかけになったと思われるのが、日々のすることがそげん楽しくないようなことの繰り返しな感じで、それにだんだんと嫌気がさしてきたことだったと考えています。その頃はぼんやりと「自分は何のために生まれ、そして生きているのだろう」と感じていました。まあ、なんとなく甘えの気持ちもあったのかもしれませんが、「人生がまるで人間らしいものではなく毎日同じような動きをして働きまくる産業用の機械のようだ…」と思っていた記憶があります。

そしてしばらく月日が経過して、インターネットでとあるキリストの教えについて紹介するというサイトを見つけました。そこでは、この書いてある通りに祈って主イエスの福音の要素?を信じさえすればその時から救われるといったものでした。今まで体験したことのないようなものに出会って新鮮な気持ちでワクワクしてその通りにやってみたのですが、うーん…、いまひとつ効果がわかりませんでした。それもそのはず、そんなのは人々にとっては耳触りの良い偽の福音だったけん。

 

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

新約聖書 マタイによる福音書 七章二十一節

 

上記聖句からも、主イエスから認められるには信仰からくる行いが必要だとわかります。

ちょっとして、感覚として楽にお金が稼げるというおいしい話なんてほぼないのと同じようにこげに甘い話はないだろと思ってわりとすぐに離れました。そうはいっても、キリストについて関心は持ち始めていたために、関連のものを何個か見たと思います。その中で、他のとは明らかに違ったのがミカエル氏のブログでした。こちら(真の聖書福音と預言)です。初めて見た時から、今まで見聞きしてきたこととは明らかに違うことがたくさん書かれていて強い衝撃を受けました。自分でも聖書を買って読んでみて、彼が聖書に依拠して様々な内容を説明していると確信できました。他に聖書の解説をしている人は大勢いますが、ほとんどが聖書を正しく根拠にしていない自説を入り混ぜる中、本当に聖書を唯一信頼に足るものとして考えて解説しているとわかりました。もちろん、自分自身でも聖書を読むことによって、そのことを実感いたしました。

 

今考えてみると、今までのことは信仰を見出すために主なる神によって用意されちょったことなんかもしれません。

 

神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 一章九節

 

神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。

新約聖書 テモテへの手紙 一章九節

 

聖書の真理を悟り、主イエス・キリストへの信仰をもって、それによって神の掟を守って神の御心を行うように憐れみを受けて信仰に招かれたのは確かですが、神の民として神によって選ばれるかはわかりませんし、自分が救われて天の御国に入れていただけるかもそんなことはわかりません。正しい信仰の道は時に辛いですが、義への道を示していただき何より恵みをいただいたことに応えるために、ひたすら信仰を固く保持し、行いによって信仰をし続けるよう頑張ります。

 

信仰に入ってからは、価値観が大きく変わりました。本物の愛を知り、人間を真に幸せにするのはこの世にあるあらゆる物事ではないと気づきましたし、かつては死を恐れていましたが今は聖書が教える本当の死生観を知ってからは特に怖いもんでもないと認識できるようになりました。かつて動物園に行ったときには動物園で飼育されている動物なら人間にしっかりと世話されて気楽に生きられそうだけん動物になりたいとか、飼い主に愛されているペットになりたいとかとも思って、人間であることが嫌になってた時もありましたが、主イエスを知ってからは人間に生まれたことが喜ばしいと思っています。そして、人間の罪深さや無力さを知って、だんだん自分の身の程をわきまえられるようになったと思います。その他にも多く改善できたことや良いふうに変わったことがあります。ですが、まだ自分自身は主がお求めになる完全には程遠いけん主イエスに依り頼みながらひたすらできる努力をし続ける必要があります。

 

今日はもう聖書での世の終わりの時代だと教えていただきました。昨今のコロナ茶番で既に艱難期に入っています。世界でのコロナ騒動を使った新世界秩序への確立がますます進みつつあり、もう自由に学べる時間も限りなく少なくなってきています話がそれるため、詳しくはご自分でお調べになることを勧めます。人によって信仰を見出すきっかけは様々でしょうが、どうか一人でも多くの人が世の欺瞞を知り、唯一の救い主なる主イエス・キリストを知り、信仰に目覚めて立ち返る人がおられますように。