先日書いた

 

住みついていた妖怪 の続きになります。

 

 

 

 

50年近く拗ねていた自分に

 

氣づいた時

 

 

 

うわぁ~~~~~~っ!!!

 

恥ずかしい~~~~笑い泣きあせるあせるあせる

 

 

自分に向き合うことを続けてきたのに

 

全然氣づかなかった~~~~笑い泣き

 

ってメッチャへこみました。

 

 

 

それだけ、私にとってはトラウマだった

 

ということでもあるし、

 

頑なに、私は必要な存在であると

 

思いこみたかったのだと思います。

 

 

 

でも、やっと自分のために泣くことができて

 

ホッとしたし、力が抜けました。

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな中、両親と叔父の家に行ったんです。

 

 

 

テレビが壊れてしまったと聞いて

 

私の家にあった使っていないテレビを

 

持って行きました。

 

 

 

叔父は視力が弱く、あまりテレビは

 

みないそうなのですが

 

あればたまには映画などをみたりもしていたそうで、

 

たまにでもテレビを使ってもらえたら嬉しいなって

 

思っていたのですが。。。

 

 

 

テレビの設置をはじめたら

 

もうテレビはみないからいらない

 

って言いはじめまして。

 

 

 

なんか拗ねてる???

 

 

 

って思いました。

 

 

 

 

それに対して、父も母も

 

素直にありがとうって言えばいいのに

 

とか

 

いらないならテレビの契約切る

 

とか

 

なんかザワザワしていました。

 

 

 

 

それを見ていて、

 

私はとても、とても悲しくなって

 

涙があふれてしまいました。

 

 

 

 

拗ねている という現象が

 

私の内側を映し出したものであったなら

 

 

それに私が氣づいた瞬間に

 

拗ねている部分を映し出してくれる

 

周囲の人の反応が変化するはずなのに。。。

 

 

 

叔父も、父も、母も

 

みんな拗ねてるーーーーー!!!

 

 

 

衝撃でした滝汗

 

 

 

 

 

そして、私もこの中に居たんだ

 

って思いました。

 

 

 

最初は家系で持ち越されてきたもの?

 

とも思ったのですが、

 

なんか違う氣がして。

 

 

 

何でかというと、

 

拗ねてる叔父や両親に接して

 

私が思ったのは

 

 

拗ねてるってなんかかわいい

 

 

だったんです。

 

 

 

小さい子供と同じで

 

自分が感じたことに一生懸命で

 

なんかかわいいなって。

 

 

 

でも、きっと

 

拗ねてる行動や言動をかわいいって思えるのは

 

母性の部分。

 

 

 

叔父の拗ねている姿に

 

父も、母も、拗ねて返しました。

 

 

 

きっとこれは、私の問題だけでも

 

家系の問題だけでもなく

 

長い長い時の中で育まれなかった母性。

 

 

 

深い愛が受け継がれなかった痛み

 

 

 

 

そう思いました。

 

 

 

 

 

 

長くなってしまったので続きます。

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございます。