散文?
雑然とぶらさげられたプラスチックのバッグと
スーパーのポリ袋。
和文聖書と、英和対約聖書
黄色いラベルのカルーア
この不可思議な三位一体が
地下鉄の騒音とともに、
意味深長な啓示をもたらす。
もし、
あと一つ
何が不足かと問われたならば
「ショーペンハウエル」
と答えるだろう。
久々なので文芸っぽく
紫のバラの人 よりも更新が遅れそうな勢いでした。
気が向いたので更新。
久々なので、文芸っぽく。詩です。そうです、ポエムです。
夜中に書いたので、昼間に読み返すのが怖い(笑
明瞭な意識 あいまいな回想
満ちて 引いて
誰だかの笑顔 胸に残るにぶい痛み
満ちて 引いて
満ちて 引いて
まどろみの奥に ずぶり ずぶり
SAYURI
忙しさと、環境の変動が激しかったことで
あっという間に年末、そして気付けば2006年・・。
4ヶ月ぶりくらいの更新とあいなったわけだが、最早新規立ち上げとも言える状況。
何度か来訪くださった方には大変申し訳ありませんでした。m(_ _)m
さて、しばらく書きたくて書いていなかったのが
標題の「SAYURI」について
いやー。チャン・ツィイー美人ですね。
しかしですね、この映画、彼女を美人として撮影することには成功していても
「芸者」として撮影することには成功していないように思えるのです。
何故か。それは、芸者は本来こんな感じだと思うから↓
4人並んでいますけど、ちょっと離れたらそれぞれの個性なんて
見失ってしまうような、揃いの着物、揃いの化粧、そして厚く塗った「どうらん」
この没個性こそが芸者の特徴だと思うのです。
チャン・ツィイーをもう一度見てください。
個性が全面に押し出されているではないですか。
恥らうような、奥ゆかしいような仕草や表情を見せているかのように見えますが
これはスピルバーグによる欺瞞ですよ。
本来の芸者には、この没個性を前提とした悲哀とそこに押し込められた美貌によって
醸し出される独特の「美しさ」があるのです。
これぞ、日本的「美」ってやつです。
SAYURIは楽しめる映画だと思います。
しかし、芸者の精神世界の解釈には誤りがあるんじゃないでしょうか。
それがゆえに、強い違和感を感じるのです。
そんでもって、多くの日本人がこの違和感を抱えてくれていることを願うのです。
久々に書くと、熱くなるなぁ(笑
正義の鉄拳ア○パンチ
久々更新。ってか更新するたびに久々更新ですが・・。
タイトルの一言
「正義の鉄拳ア○パンチ」
これ最近お気に入りの、フレーズです。(念のため伏せ字)
作成者は友人のじゅんじゅん。
言わずと知れたア○パンマンの必殺技ですね。
どうしてこの一言が気に入ったのかというと結構奥深かったりしたりして。
この一言は、いろんな矛盾に気付かせてくれるのです。
まず、このヒーローは何でも最後はこのパンチで解決している。
このパンチの威力は半端じゃなくて、
殴られ役の「ヤツ」を乗り物ごと山3つくらい遠くへ飛ばすことができる。
だがしかし、どう見ても痛くなさそう。
これほどの威力を見せつけられても、なお戦慄を覚えた記憶すらないのです。
ヒーローのパンチです。
正義の鉄拳です。
世紀末で言えば、北斗○拳です。
なのにまったく痛そうではない。
それだけならまだしも、殴った方も殴られた方も割とけろっとしている。こりゃなんだ。
なんなんだ。
破壊力を無視した痛みの軽さ。
まあ、マンガではよくあることですけどね。(空飛ぶアタル君とか・・古いか)
この痛みの無視加減は半端じゃない。
そして割と大事なもう一つの気づき
このヒーローは本当に正義のために拳をふるっているのか?
ちょっといたずらしてみただけの「ヤツ」に対して
実はひどく独善的に拳をふるっているのである。
さて、こんな矛盾をつついたからといって
このヒーローを嫌いになるかと言えば、もちろんそんなことはない。
果たしてあの愛くるしい顔を憎めるものがあるだろうか。(いや、いない)
独善的でも理屈を抜きにしても
正義の鉄拳はふるえるってことなんじゃないでしょうか。
だから私も
たまには、正義の鉄拳ア○パンチを
きっとお見舞いしてやるんだと。
そんな決意をくれる一言。
そんなわけで、お気に入りなのです。
「ソフトボイルド フィロソフィー」
誰かの二番煎じではなく、本当に自分の口から出てくる言葉って意外と少ない。
自分の考えなんて、
たいていはどこかで見たり聞いたり読んだりしたものだったり。
だから、オリジナリティのあるコピーを作れる人は、それを商売に出来るわけで。
一生のうちに、納得のいく言葉をいくつ紡ぎ出せるかなんて。
それ故に、ぽつりぽつりと浮かんでくる言葉のなかで、
気に入ることが出来る言葉は、とっても貴重に思えるのです。
これは、最近浮かんだ、そんな言葉のひとつ。
「ソフトボイルド フィロソフィー」
難しく考えることは際限が無くて、
突き詰めたからといって幸せになれるわけでもない。
もっと簡単なところに終着することを「よし」としても まあいいじゃないかと。
些細な日常の中にも
爆笑の渦の中にも
ちょっぴり涙するできごとの中にも
「ちょっとした気づき」というのはあるもので。
そんな気づきが、案外深みのある思索を生んだりするものなのです。
何気ない思考の中にたゆたう哲学のかけらをキャッチして
ちょっとばかし言葉に出来たなら、
それが、「ソフトボイルド フィロソフィー」
ゆるゆるだけど、半歩だけ先を考えてみる。
半熟なりのあじわいっても、あるものかと。
香水にまつわる散文
「カボティーヌって知ってる?」
こんな一言から、色々思い出したりした。
香りの記憶というのは割と鮮明に残るものだと思う。
すずらん系のあおっぽい香りが好きで、よくカボティーヌを愛用している
人がいたなあと。
そんなことを思い返しているうちに、色んな光景がフラッシュバックする。
不思議としばらく忘れていたと思っていた光景や会話の内容も脳みそは覚えているらしく
ちょうど、沸騰しはじめた薬缶に、あぶくが加速しながら浮き上がるみたいに
ぽこぽこと、とりとめもなくフラッシュバックしていく。
嬉しかった台詞や、その逆や。風のにおいや、夕暮れのシルエットや。
香りの記憶と結びついたからか、音や映像がリアルに浮かび上がっては、はじけて。
いまは、DiorのJ’adoreとかGUCCIのEnvyを愛用している人が伴侶。
たぶんずっと。
たとえ100万人の女性がそれを愛用していたとしても、
それは、あなたの香り。
一緒にく歩いている何気ない時間や、くだらない話をして笑っている時間も
彼女の香りとセットになって私の脳細胞に刻まれていっているんだろう。
雨の日に、会社に行くのは憂鬱だ。
コンクリートジャングル、傘がぶつかる、不機嫌な会社員、周囲に募る苛立ち。
ため息をつくと、Envyが香った。
「同じ香りだ」 独り言がこぼれて、わらった。
世界に色が戻った気がした。
その光景に好奇心をもてるかどうかだ。
先日、テレビで福山雅治さんが言ってたお言葉。
「その光景に好奇心をもてるかどうかだ。」
福山さんは写真家の故植田正治さんと出会い写真の魅力を
教えてもらったらしく、まあ、それだけでもうらやましい限りなのですが・・
植田さんの作品を評して曰く、
「なんでもない光景なのに、先生が撮るととても貴重な光景に写る」 と。
それは、植田さんが「なんでもないもの」に強い好奇心を持つことが出来るからこそだ
という福山さんの思いから出てきた一言です。
「その光景に好奇心をもてるかどうかだ。」
目の前にある光景に、どれだけ強く好奇心をもってシャッターを切れるのか
これが、天才と凡人の差だと、思ったそうです。
いたく納得しました。
これってなんについてもそうだと思うのです。
天才ほどではないにせよ、目の前にあるものをどれだけ受け入れられるか
そして、目の前にあるものをどれだけ「特別」と思えるか。
いろんな気づきって、こんな些細な気持ちの持ち方から出てきていて、
くだらないことでも、意外と生活に彩りを添えてくれるものなのではないでしょうか。
今日のパセリはいつもよりあおいな・・とか。
目の前にある光景はいつでも特別だって思えたら
もうちょっと、しあわせになれるのだろうな。
ボージョボー人形のジレンマ
最近「ボージョボー人形」なる開運グッズ(?)がバカ売れしているらしい。
こんなの↓
(ホントはここで、アフィリエイトとかにするとそれなりの収入になるのだろうか(笑))
さておき、
このボージョボー人形。2体の人形の手や足の結び方で
金運から恋愛まで幅広く望みを叶えるというスグレものらしいです。
面白いのは、恋愛に関する望みでは「別れたい」「結ばれたい」の双方に
用いることが可能と言うこと。
さてここに、一組の男女が居て
男「ぜったいコイツと結婚したい。頼んだぞ、ボージョボー。」
女「ぜったいコイツと別れたい。頼むわよ、ボージョボー。」
こんな展開も充分あり得るわけです。
きっとこんなとき、ボージョボーの世界ではこんな相談がされるのではないでしょうか。
ボージョボーA(以下A)「なーなー、結婚させちゃおうぜ」
ボージョボーB(以下B)「それは困るよ。こっちは別れさせろって頼まれてるんだから」
A「そんなこと言って、別れたら『あ・・やっぱりダメ』とか言ってまたくっつけさせられるんだぜ」
B「・・そーだよなー。なにせコイツラ、これで3回くらい同じことしてるからな。」
A「だろ?これまでは、俺たち一生懸命考えて『結婚したらワリと取り返しつかないから』って別れさせたけど・・」
B「いい加減、結婚させた方が楽かもなぁ」
A「でもさ・・どっちを叶えても、やっぱオレらの評判は下がるんだよな」
B「所詮ただの人形か、とか言われるだろうね」
A,B「あああー」
人の幸福を作ることが出来るという自負が
即ち存在意義となっている彼らボージョボーたち。
だがしかし、
ときに叶えることが、叶えないことになってしまう。
嗚呼、ボージョボーのジレンマ。
人の望みを叶える力なんてありがた迷惑なモノを持ってしまったばっかりに
偶然と勢いに任せればいい世界で悩まざるを得ない
ボージョボーに同情(オヤジギャグではない)
思うに、
こんな徒労を
いとわない人間が
増えたらいいな。
信念って
最近、この一言を投げつけたい人がいたりします。
「信念ってなんですか?人の話を聞かないことですか?!」
いや、信念があるとも思えないのですけどね。
人の脳にはミラーニューロンとか、なんとか、確かそんなのがあって、
話している相手の感情の動きをコピーしようとする働きをしているのです。
同情や共感を生む機能ですね。
こんな機能が本来的に備わっているということは、
基本的に話している相手の心情をくみ取るようにするのが
本来の自然な人間活動なわけでして・・
いやーいますよね。
聞いてるふりして、なんにも話を聞かない人。(涙)
ちなみに、このひとことは「12人のやさしい日本人」という映画より引用。
名言、名場面の多い三谷幸喜の名作です。もちろんコメディー。
かなりオススメの一本です。
続 氷点
やっと読み終わりました。「続 氷点」
なっぱさん、読了だよー。
さて、「氷点」のテーマは「原罪」でした。
「続 氷点」のテーマはやはり必然的に「ゆるし」となっています。
主人公の女の子(陽子)を中心として続~では、罪はいかにゆるされるのかについて
とうとうと展開されていきます。
率直に感想を述べると、
なんか学生時代を思い出すような、青臭いところのある話に仕上がっています。
罪の意識はたとえ「許す」と人に言われたところで、ぬぐい去ることができないものが
あります。
陽子は罪が存在したという事実に打ちのめされ、どんな言葉も諦観も受け入れることが出来ず
自らの罪の意識によって苦しむわけです。
全巻を通してキリスト教に通じる哲学がバックボーンにあるので
絶対的なものによる「ゆるし」をいかに陽子が感じ取れるか・・やはりそこが収束点に
なっていくのは勘の良い読者ならすぐに分かるでしょう。
陽子の場合、結局「ゆるし」を実感できたというのとは少し異なります。
彼女は、
罪を嫌悪している自分と、罪あると思う人を嫌悪する自分とを抱えていることが
実は背反する性格を同時に抱えていることで、自分もやはり充分に罪深い・・と
素直に認めることで、罪の意識を離れることができるようになったようです。
人を責める心を見つめることで、自分を責めることもなくなったわけですね。
この心境の変化が「ゆるし」だとしたら、その心境の変化のきっかけを
作り出した、例えば神が、やはりゆるしてくれたのでしょうか・・
ひょっとしたら、そうかもしれません。
でも、私の考えは少し違います。
正しいかどうかは分かりませんが、きっと、罪があると認識できたところで
その罪はすでに贖われているのだと思います。それは、子の流した血と神の愛によって。
ただし、これだけでは人は罪の意識から逃れられず、苦しむのだと思います。
人がその贖いを心底感じることができたとき、人は罪の意識から解放され
「ゆるし」を感じ得る。
なので、「ゆるし」とは実は、いたく内面的な心理プロセスなのだと思われるのです。
そしてその内面的なプロセスを経ていくことがキリスト教に基づいたときの
「救い」なのかと。
ちなみに、悪は贖われないと思われます。
悪が罪に変わって贖われるプロセスもきっとあるのだと思いますが、
悪は神の憎むものかと。
本のテーマがキリスト教的なだけあって
書評を書いていても、そうなってしまうのですが(苦笑
もし、あなたが、ちゃんと教義を勉強されている方でも、怒らないでやってくださいまし。
19の春の私の理想
「ゆるせる人になりたい」・・・こんなんでした。今でもよく覚えています。
あぁーおこがましい。
あぁーごーまん。
あぁーはずかしいー。



