クチナシ
少々季節はずれですが、家から駅までの間の道に
クチナシの花が咲いているところがあります。時期はもう終わりなのですが。
大体、駅までの道などというものは急いで歩いていたり
全然違うこと考えていたりで、あまり路傍の花に目を奪われたりはしないものです。
(もちろん、そうでない人も大勢居るでしょうけれども)
そんな私でも、夜、帰宅中にいつも同じタイミングでクチナシの存在に気付いたりします。
やっぱり何か考え事をしながら歩いていて、花の前をふっと通り過ぎると
後ろからふわりとクチナシがよく香るのです。これがいつも同じタイミングでちょっと
可笑しいのですが。
あの、甘ったるい芳香はじっと嗅いでいるのは耐えられないでしょうけれど
ほのかに香るくらいだと、結構心地いいものです。
そうして、いつも同じタイミングで癒やされています。
白い綺麗な花の割には、その香りではじめて存在を知ることが多いので、
毎度「クチナシ」とはよく言ったものだと思います。
姿は見えなくても、何も語らなくても、あることがわかる。
ちょっといいじゃないですか。
花は梅になってしまいますが、こんな歌をよく思い出します。
「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそみえね香やはかくるる」 みつね(漢字変換不能)
でも夏の香りといえば万葉集のころから「橘」と相場が決まっているんですよね。
「かへり来ぬむかしを今とおもひ寝の夢の枕に匂うたちばな」 新古今 夏 式子内親王
でもじつは「クチナシ」って果実に割れ目が出来ないから「クチナシ」って言うんですよね・・。
でも「色こそ見えね・・」の方が情緒のある解釈じゃないですか。
と、そんなことを考えながら、蒸し暑い夏の夜は更けていくのでした。
「そのとき、全米が泣いた」
この台詞、最近のヒットなんです(笑
エピソード3を始め、話題の映画が次々に出てくる時期に
なったので、よく聞くのかも知れませんが、
単純に自分の中に響きやすくて残ってるのかも知れないです。
「そのとき、全米が泣いた」
かっけー。
シチュエーションとナレーターでまったくニュアンスが変わってくるのが
また面白い。
・彼は、命の尊厳のために
呼吸器を外した 「そのとき、全米が泣いた」
・ポケモン、アメリカに上陸。 「そのとき、全米が泣いた」
・お兄ちゃん、相続放棄 「そのとき、全米が泣いた」
・あー今日の夕飯どうしよう。 「そのとき、全米が泣いた」
卑近なものにすればするほど、この台詞は光るようです(笑
そして想像してみよう。
正当派: 村井国夫 「そのとき、全米が泣いた」
不思議派: 森本レオ 「そのとき、全米が泣いた」
浅田飴派: 永六輔 「そのとき、全米が泣いた」
ぴあ派: おすぎ 「そのとき、全米が泣いた」(絶対見なさい!)
ニュアンスだけでなく意味まで変わって感じるではないか!
すごいよ、この台詞。
と、しつこく引っ張ったとこでそろそろおしまい。
全部で10回使っちゃいました。さすがにしつこかったか(苦笑
氷点
2週間ぶりの更新。
ひどいもんです・・。
ま、のんびりってことで(自己フォロー
さて、書評です。
友人のなっぱさんにお借りした「氷点」です。
実はこれ「続・氷点」ってのもあってこちらも読まないと
一連の話として落ち着きません。
続~のほうはまだ読みかけなのですが、ま、上下巻読んだことだし
書いておこうかと。
えー。この本のテーマはおそらく「罪」です。
(って書いてから見直したらあとがきに「原罪」って書いてあった)
というわけで、原罪についてあらゆる登場人物が悩むわけです。
特に主人公の少女とその父さんは理性的に、
その母さんはそれと気付かずないながらも同様のものに苦しめられる。
原罪とは何か。
これはあまりに深淵なので、難しいことは他に譲るとして
私の解釈では「血の持つ罪」だと思います。
先天的かつ根源的罪。
当人に直接の責は無いにも関わらず負っている責。
今の自分にたどり着くまでには数多くの血が流され
恨みが生まれてきているということ。
そして、キリスト教的に言うならばそもそも最初の罪無くして
現在の我々は繁栄していないということ。
話は小説にもどって、主人公もその家族もみんなこの「罪の意識」に悩まされる。
悩んで、苦しんで、結局人を悲しませる行動をとってしまうと。
まあなんともドロドロすっきりしない話な訳です。
ただ一点、作者の人間に対する希望が逆説的に
表現されているのは、彼らが罪に感じていたもの、苛まれていた感情は
実は全て「思いこみ」から生じていたという点。
原罪の克服、罪の意識からの逃避など結局は不可能だと、書いておきながら
しかし、それらはそもそも「思いこみ」から生じていると書くことで
人の幸せはそんな途方もなくつかみ所のない罪の有無に関わらず
相手をどう思えるか、自分をどう思えるか、ものごとをどう思えるかという
「思いこみ」の正負の加減で案外どうにでもなるものなのだと。
一見冷たいようで、希望的結論をにおわせていると思います。
ほとんどの登場人物がどこかしらに必ず悪意を持っているので
読んでいて気の重くなる話ではありますが、それなりに考えさせられるものも多いです。
ブームになっただけのことはあります。
ネタばれにならないように色々と伏せて書いたら
いたく抽象的な書評になってしまった・・。
それなりになっているでしょうか?
家政婦は見た
のっけから、色んなモノに抵触しそうなタイトルですが、
最近の若貴騒動で、ついに家政婦さんまで登場しちゃったわけです。
そこで、週刊誌のタイトルは当然「家政婦は見た」と。こうなるわけで。
そもそも、市原悦子さんの偉業は家政婦は「見る」ってことを定着させてしまったことでしょう。
なにがあっても見るんです。ただ、見ることが重要。
そして放っておけばいいものを、コトが泥沼化してからひょっこり現れるから
いつも「見た」になっているわけです。過去形万歳。
過去形には進歩がありません。進歩がないのはいけません。
それだけ見てるなら、もっとアグレッシブな、世直しをするくらいの家政婦になってほしいものです。
つまり、「家政婦は見る」であるべきなのです。
家政婦は「見るもの」というと、しかし、今度は別の過ちが起こりやすくなります。
家政婦は見るものだ。
そう、家政婦は見るもの。
話すものでもなく、聞くものでもなく。見るものなのだと。
こうなってくると、かなり話が違います。
loftとかで売られるわけですよ。
「観賞用家政婦」
こうなると、なにがなんだか訳がわかりません。
これじゃだめです。
しかして、やはり家政婦はいつまでたっても「見た」であるべきなのかと。
西洋骨董洋菓子店
漫画です。
かつてTVに放映されたこともあるそうで、
その原作を読んでみました。
感想ですが・・とにかく
うまそう!
もちろん、それだけではなく、結構切ない 話でもあるのですが。
ケーキ屋さんを舞台にした話だけに、ケーキの描写がいいんです。
おいしいケーキの食べたくなる漫画でした。
池波正太郎を読むと酒が飲みたくなるのと
おんなじかな。
色々考えさせられるトコロもあるのですが
その辺は、まあ、よんでくださいませ。
ってそこが書評のポイントか(笑
だけどもね
「大事なものは目には見えないんだよ」
言わずと知れた王子様の一言。
だけどもね。
私のあのCDはどこへ行ったーーーーー!
ここに引用しようと思って、見あたらないのに気付きました。
見つけたら引用します。
B’zではありません。
あしからず。
あ、
こんなことは、大事ぢゃないんですね。
王子様 (汗
三日坊主か、はたまた
最近はやりのブログを作ってみようと
書き始めてみました。
どれだけ続くんだ? なんてつっこみが方々から聞こえてきそうですが
ま、そこはそれ、なんとやらってことで
やってみなくちゃわからない。
趣味のことやら、おいしかった食事の話やら
徒然に書けたら楽しいかなと。
ひとつ気長にってことで。