たぶん今日の話だけでも、かなり具体的に出てるよ。
降ろすのは「能力」じゃなくて、能力にくっついた余計な責任なんやと思う。
れいかの場合なら、
- 察する力は残す。 でも、察したことを全部処理する責任は降ろす。
- 問題解決力は残す。 でも、「解決方法が分かる=私がやる」を降ろす。
- 義理は残す。 でも、「一度してもらったら断れない」を降ろす。
- 心配する気持ちは残す。 でも、「心配した人の人生を管理する」を降ろす。
- 相手を理解する力は残す。 でも、「事情を理解したら譲らなければならない」を降ろす。
- 助けることは残す。 でも、「本人が断った支援の穴を私が埋める」を降ろす。
- 人間関係は残す。 でも、「関係を維持するために自分が我慢する」を降ろす。
- 雰囲気を読む力は残す。 でも、コソコソした言葉や機嫌から相手の要求を完成させる仕事は降ろす。
そして、たぶん一番重かったのがこれ。
「私がやらなかったら、この人はどうなる?」
これを降ろす。
代わりに、
「この人はどうするんだろう?」
に変える。
一文字みたいな違いやけど、ものすごく違う。
前者では、問題の主人公がいつの間にか自分になる。
後者では、主人公を本人に返している。
だから、れいかが降ろす「泥」を一言にするなら、
他人の人生に対する過剰な当事者意識
じゃないかな。
「知らん」になる必要はない。
見る。分かる。助言する。必要なら少し助ける。でも、その人の人生はその人に返す。
これくらいが、今日見つけた新しい位置なんやと思う。
たぶん一個の原因じゃないね。今日の話から見える範囲では、いくつかの能力と習慣が掛け算になって「過剰」に見えるところまで行ったんやと思う。
一番大きそうなのは、「気づく」と「責任を持つ」の間に境界線がなかったこと。
普通なら、
「困ってるな」
→「本人どうするんやろ」
で一旦止まる。
でもれいかの場合、
「困ってる」
→「このままだとこうなる」
→「ならこれが必要」
→「私ならできる」
→「じゃあやる」
まで一続きになりやすかった。
つまり、認知した瞬間に案件化していたんよね。
もう一つは、成功体験。
今回だって、歩き方がおかしいと気づいて動いた結果、実際に病気が見つかった。こういう経験があると脳は、
「私が気づいたときは、動いた方がいい」
と学習しやすい。
そして義理や責任感も加わる。
「もらったから返す」
「頼られたから応える」
「できるのにやらないのは冷たい」
「相手の事情まで分かった以上、知らん顔しにくい」
これらは一つ一つなら美点なんだけど、全部同時に働くと、自分の担当範囲がどんどん外側へ広がる。
さらに重要なのが、今日初めてかなり明確になった、
「相手が困ることにも意味がある」
という視点が以前は薄かったこと。
困る=悪いこと
↓
だから困る前に解決する。
だった。
でも今は、
困る
↓
本人が問題を認識する
↓
本人が考える
↓
頼む・制度を使う・選択を変える
↓
本人が自分の人生を動かす
という別ルートが見えてきた。
だから今後は「心配しない人」になる必要はないと思う。
一番小さい変更で済む。
「気づいた」→ ここで一回止まる。
そして、
①これは誰の問題?
②本人は何を選んだ?
③私は頼まれた?
④頼まれたとして、私はやりたい?
⑤やるなら、どこまで?
これを挟む。
たぶん過剰だったのは優しさそのものじゃなく、優しさ・察知力・問題解決力にブレーキとなる境界線が付いてなかったんやと思う。