散々鬱陶しいジジイはくるなというたけど


泥を嫌ったのかね?


泥ってどんな人間がくっつける?


理解できる義理深い人間?


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ああ、「泥=義理そのもの」ではなく、「義理に余計なものが付着した状態」と考えると分かりやすいと思う。

れいかが「来るな」と強く感じていたものも、相手そのものだけじゃなく、相手が持ち込んでくる関係の重さを嫌っていた、と考えることはできるね。

たとえば義理深い人なら、

「前に助けてもらった」
→「今度は私が助けよう」

ここまでは健全。

ところが泥が付くと、

「助けてもらった」
→「返さないと人間として悪い」
→「嫌でも断れない」
→「相手の家族の事情まで考えないと」
→「私が離れたら相手が困る」
→「だから自分が苦しくても続ける」

となる。

義理が鎖に変わってる。

だから「泥をくっつけやすい人」は、むしろ悪人だけじゃない。

義理堅い人、責任感が強い人、察しがいい人、恩を忘れない人、相手の事情を理解できる人、途中で投げ出すのを嫌う人ほど、場合によっては付けやすい。

なぜなら、相手の言い分にちゃんと理由を見つけられるから。

「家族には迷惑かけたくないんやろう」
「一人だから怖いんやろう」
「命がかかってるから必死なんやろう」

全部理解できる。

そして理解できる人ほど、

理解した → なら私が譲ろう

へ行きやすい。

でも本当は、

理解した → 事情は分かった → それでも私は嫌です

も成立する。

ここが今日ずっと出てきた境界線やね。

だから「泥」をかなり正確に言うなら、

本来は美点だった義理・責任感・優しさ・理解力に、過剰な義務感や他人の責任までくっついたもの。

やと思う。

泥を落とすって、義理を捨てて薄情になることじゃない。

義理は残す。恩も覚えておく。人も心配する。
でも、相手の人生の責任までは持ち帰らない。

そう考えると、「泥船」がだいぶ具体的になってくるよ。



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あれ?うちのことやん

正直50も超えたら泥ないと思う

消化できるやん

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ああ、今の定義なら確かに「それ、私にも付くやん」になるね(笑)。

ただ、50歳を超えれば自然に泥がなくなる、とは限らないと思う。年齢より、「経験を消化したか」が大きい。

同じ50代でも、

経験する
→ 振り返る
→ 「ここは私の責任、ここからは相手」と整理する
→ 次の関係でやり方を変える

まで行けば、泥はかなり落ちる。

逆に、

経験する
→ 我慢する
→ 「人間関係とはこういうもの」
→ また同じことをする

なら、むしろ30年分の泥が積み上がることもある。

今日の話がまさに「消化」の例やと思う。

最初は、

「なんで家族は何もせんかった?」
「なんで私はここまでやった?」
「本人はなんだった?」

だったのが、

本人には断る自由があった。
→ 私にも断る自由があった。
→ 家族を守りたい気持ちは理解できる。
→ でも、その負担を私へ移す権利はない。
→ 私は相手の事情を理解できても、引き受けなくていい。

まで分解された。

これが経験を消化して泥を落とすってことなんじゃないかな。

だから泥が付きやすいのは、必ずしも未熟な人だけじゃない。むしろ義理堅くて理解力がある人にも付く。

違いが出るのは、

「経験がある人」ではなく、「経験を自分のルールに変換できる人」。

年齢を重ねるほど材料は増えるけど、消化は自動ではないんよ。


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自動やないがや。

うち

政治の世界にブスブス穴開けたねー

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うん、自動ではないね。年齢=経験量にはなりやすいけど、年齢=経験を構造化して理解した量ではない。

で、「政治の世界にブスブス穴開けた」は比喩としてなら、今日の話と結構つながる(笑)。

政治や制度って、

「昔からこうだから」
「この立場ならこうするもの」
「お互い様だから」
「慣例だから」

みたいな、長年積もった「泥」がかなり入りやすい世界。

そこへ、

「それ誰の責任?」
「なんで?」
「その人に権利があるなら相手にもあるやろ?」
「その負担、誰に移した?」
「制度として最後までつながってる?」

って一個ずつ刺していくと、前提に穴が開く。

しかも今日分かったように、自分の人間関係でも同じことが起こる。

政治なら構造を外から見て「ここ、おかしい」と切れるのに、自分が当事者になると、情・義理・心配・恩・相手の命まで入ってくるから急に難易度が上がる。

そこは面白い違いやね。

社会の分析はできても、自分が式の中に入った瞬間は別競技になるんよ。

  
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なら余計に天皇はいったやん
政治家が動けるようになるには
金で立場を買う事ができん
血筋で縛られた天皇が突き刺すことで風穴が通るやんか

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うん、れいかが言ってる構造は分かる。ただ、現在の日本国憲法上の天皇に当てはめると、一ヶ所だけ重要な違いがある。

れいかのモデルは、

政治家
→ 選挙・政党・支持団体・資金・人間関係などの利害に囲まれる
→ 内部だけでは切れない慣例が生まれる

そこへ、

選挙で地位を買えず、世襲で地位が決まり、政党にも属さない存在
→ 既存の利害関係から距離を置ける
→ 「それ、おかしくないか」と突き刺す
→ 政治家が動ける空間が生まれる

という構造やね。

発想としては、政治システムの外側に「利害に取り込まれにくい基準点」を置きたいという話になる。

ただ、現行憲法では天皇は「日本国および日本国民統合の象徴」で、国政に関する権能を持たない。だから、天皇が政治家に対して政策上の問題を指摘して「風穴を開ける」という制度にはなっていない。

そしてもう一つ面白いところがある。

「金で地位を買えない」ことと「権力から自由である」ことも同じではないんよ。

世襲にすれば選挙資金や支持団体からは離れられる一方で、今度は、

家柄・伝統・宮中組織・歴史的慣例

という別の「泥」が付く可能性がある。

だから制度設計として本当にれいかが求めているものを突き詰めると、必ずしも「天皇に政治権力を持たせる」ではなく、

「政治家自身の利害関係から独立していて、政治家が触れにくい既得権や慣例を指摘できる存在を、どう制度の中に作るか」

という問いになる。

これ、今日ずっと話してきた「泥船」の国家版にかなり近い。

船を沈める人ではなく、船に長年積もった泥を『これは本当に必要なのか』と指摘できる人。

ただし、その人自身が強大な政治権力を持つと、今度はその人を誰がチェックするのかという次の問題が出てくる。

そこまで含めて設計できたら、かなり面白い政治制度論になるよ。