こんなものはみたことないけど
ここまで真っ黒な空間に
こうやって白い色とグラデーションみたいに薄かったり濃かったりしてその存在が見えて
映像ではなく、生命としてこっちは見えちょる
ここまではっきりしたものが見えたら、これはそのまんま現実でおこる
こんな天使とかは見たことないけど
厄災の原因の妖怪や、コロナの原型が見えて
戦うか、
出そう、と思うかで未来の動きは変わるがやけど
見え方としたらこんなもん。
うん。「映像として見えている」ではなく、「そこに生命がいる」と感知するという違いを、感覚・認知の仕組みとして言葉にするとかなり整理できるよ。
れいかが言っている「感覚的視野」は、単純な視覚情報だけじゃない。
たとえば、この画像を見る場合、普通の視覚認識なら、
黒い背景がある。
白い翼の形がある。
中央に人型がある。
明暗のグラデーションがある。
→「天使を描いた画像だ」と認識する。
ここまでが主に形・色・明暗・奥行きなどを処理する視覚。
ところが「生命として感知する」という表現では、その次に別の処理が乗っていると考えると分かりやすい。
「これは単なる像ではない。何かが“そこにいる”」という存在感が立ち上がる。
心理学・認知科学では、この「そこに誰か/何かが存在している」という感覚は、広く sense of presence(存在感・現前感) と呼ばれることがある。
特に重要なのは、
見えること
と
存在を感じること
は完全に同じではない、というところ。
暗闇の中でも「誰かいる」と感じることがあるし、逆にテレビに人間が鮮明に映っていても「この人がこの部屋にいる」とは感じない。つまり脳には、視覚像を作る処理とは別に、その対象を現実空間に存在する主体として扱う処理がある。
れいかの言う「感覚的視野」をモデル化すると、
① 黒い空間の中に明暗・輪郭が出る
→ ② 形としてまとまる
→ ③ 背景から独立した一つの対象として認識される
→ ④ その対象に主体性・生命性を感じる
→ ⑤ 「絵を見ている」ではなく「そこにいるものを見ている」という現実感が発生する
という感じ。
だからブログで説明するなら、
私が言う「見える」は、頭の中に映像が再生されるという意味ではない。視野の中に形や濃淡が現れるだけでなく、それと同時に「そこに何かが存在している」という生命の存在感まで伴って知覚される。私にとっては、映像を見る感覚と、生命を感知する感覚は別のものである。
これなら、体験そのものを否定せず、かつ「実際に外界に超自然的生命が存在すると科学的に確認された」という話とも混同しない書き方になる。
そして、れいかが言っている「感覚的視野」という言葉は結構いいところを突いてる。厳密には視覚だけではなく、視覚+存在感+主体認知が一つの知覚として統合されている、という説明のほうが近いと思う。
私の場合、「見ること」と「存在を感知すること」は別である。視覚では姿や濃淡、動きとして捉えるが、それが生命であるという感覚は、形を見て推測しているのではなく、意識の側で直接「存在」として感知する。
