出かけていたら、連絡が取れないから、家に行ってくれと言われるし

こけていても、難病にされてるから、手が痛くてかきあげれないからね

そこで私が人呼ばなきゃいけないだろう


風呂から出れないと言ったら、突然呼ばれて、私でも出せないから、消防署を呼んでくれと言ったら、無言になって動かなくなるだろう


言うことも聞きもせんのに、簡単な人間を呼ぶわけよ


こちらは病気だと3年言ってきたのに、隣だからと言うだけで、行っても何もできないのに呼ぶわけ


そこの理解がなぜできないかと言う、こういう家族に付き合うのが1番苦痛ね


手術するとか言うから、先生が進めてくれたんですねって言ったら、AIが行ったから。先生は言ってないと。


あんた何なんみたいな?


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うん。今の話まで入れると、さっきの「頼る→厚かましい」より、もう一段構造が見える。

問題は、家族側が「誰に何ができるか」を判断せず、とにかく一番呼びやすい人へ流していることやと思う。

たとえば、

  • 連絡が取れない → 「隣の人、見に行って」
  • 転倒している → 「隣の人、お願い」
  • 風呂から出られない → 「隣の人、来て」
  • 本人が病気で力仕事できない → それでも「隣だから」
  • 「消防を呼んで」と具体的に言われる → 判断停止して動かない

これ、援助要請の適切性の判断が抜けてるんよ。

本来なら、

「何が起きている?」

「どんな能力が必要?」

「家族で対応できる? 医療? 消防? 介護?」

「誰に頼むのが適切?」

となる。

ところが、

「困った」

「近くにれいかがおる」

「れいかを呼ぶ」

になってしまっている。

だから「私は病気で、行ってもできない」と何年説明しても改善しにくい。情報としては聞いていても、問題が発生した瞬間の判断基準に組み込まれてないから。

そして手術の話も、同じ型に見える。

「医師が医学的に勧めたから手術する」なら筋が通る。でも「AIが言ったから。先生は言ってない」なら、少なくとも手術を決める根拠としては別問題。AIは一般的な情報整理や、医師に何を質問するかを考える補助には使えても、診察した医師の代わりに手術適応を決めるものではない

だから、れいかの「あんた何なん?」って感覚は、たぶん単に「話を聞かない人が嫌」というだけじゃない。

重大なことほど専門家に判断させず、簡単に呼べる人・簡単に聞けるものへ判断を預ける。その一方で、適切な助言をされても従わない。


ここが一貫してるんやと思う。


言葉を付けるなら、「援助要請先の選択が、必要性ではなくアクセスの容易さで決まっている」

これ、支える側はかなりしんどい。なぜなら「できることを頼まれる」のではなく、「近くにいるから責任まで回ってくる」状態になるからね。


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体が痛いから無理ですとか、腕も痛くて本人を風呂からかき上げれないから消防を呼んでくださいとか、こちらが言っているのに従わないわけよ。

こんな好き勝手にしてね、本人も好き勝手なのに、家族も人の言うこと聞けないとなると、普通に民生委員やケアマネに言って関わり持たないじゃない。

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うん。そこまでいくと、「頼る/厚かましい」だけではなくて、支援する側の限界を相手が尊重するかという問題になってくるね。

れいかが「体が痛いから無理」「私には引き上げられないから消防を呼んで」と伝えた時点で、それは単なる希望じゃなくて、支援能力の限界を明示しているわけよ。そこで家族が「分かった。じゃあ別の手段を探そう」と切り替えるのが普通の調整。

ところが、

「あなたにはできません」
→ でも呼ぶ
「消防を呼んでください」
→ 動かない
「私は継続的には対応できません」
→ また頼む

となったら、相手は事実上、あなたのNOを支援計画に反映していない

だから第三者につなぐという発想になる。

「本人が困っているから放っておく」ではなく、「私は担えないので、家族・ケアマネ・地域包括支援センター・民生委員など、本来調整する立場へ戻します」ということ。

むしろ重要なのはここで、

関わらない=見捨てる

ではないんよ。

自分では対応できないことを、対応可能な仕組みに渡す=適切な支援につなぐ

ということがある。

しかも転倒や浴槽から出られないような場面では、「近所の人を呼べばいい」という発想自体に危険がある。無理に起こして本人や手伝った人が負傷する可能性もあるから、状況によっては救急・消防など適切な専門対応を求めるほうがいい。

今回の話を一言で整理するなら、

「助けてほしい」は頼る。
「あなたには無理だと言われても、私があなたを使いたいから使う」は境界線の無視。

ここまで来たら、善意の量を増やして解決する問題ではなく、役割そのものを切り分ける段階だと思う。






あんたたちのせいで、こっちは、首の病気もして、そのまんま難病になったのに、それを言っているのにも関わらずこちらができないと言うことを、やらそうとして、そのせいで、体の回復が遅れて

結局本人が死んで問題が解決した今も就職につけてないんだけど、あんた経済的に金出すのって出さんじゃん。

何考えてるんだろうねここの家はと思うね。




うん。「ここはかなり良い思いをしたわね」を、先祖の言葉が事実かどうかではなく、今までの出来事を表現する比喩として解釈するなら、たぶん「楽しかった」という意味の「良い思い」ではないと思う。




負担を外部に出すことで、自分たちはかなり助かった・楽をできたという意味が一番しっくりくる。




隣家側から見れば、たとえばこういう利益があったことになる。


  • 何かあったとき、すぐ近くに様子を見に行く人がいた。
  • 家族自身がすぐ動けなくても、まず頼める相手がいた。
  • 転倒や入浴など、家族だけでは困る場面でも「隣に頼む」という選択肢があった。
  • 本来なら家族・介護サービス・ケアマネ・消防などで組み立てる必要がある部分を、近所の善意で一部埋められた。
  • そのための正式な契約も賃金もなく、相手の労力を使えた。



ここで大事なのは、相手が得た利益と、れいかが負ったコストが非対称だったというところやね。



相手側には

「助かった」「手間が減った」「安心できた」。



一方、れいか側には

「時間を取られる」「突然呼び出される」「身体的負担がかかる」「断っても聞いてもらえない」。



しかも、その結果としてこちらに仕事や収入の問題が残ったとしても、隣家がその経済的損失まで引き受けてくれる関係ではない



だから「良い思いをした」という言葉を社会的な言葉に置き換えるなら、



「この家は、他人の善意を無償の介護資源としてかなり利用できた」



という意味に近いと思う。かなり利用したよね実際。



そして、れいかが今ひっかかっている「何考えてるんだろう」は、たぶんここ。



普通は誰かに大きな負担をかければ、

「これ以上この人に頼ったらいけない」

というブレーキがかかる。



ところが、その家では「この人にはできない」という本人からの情報より、「近い・呼びやすい・今まで来てくれた」が勝ってしまった。



それなら、前に話してた「厚かましい」の核心にもかなり近い。



善意を受けた回数が増えるほど感謝が増える人と、善意を受けた回数が増えるほど『この人はやってくれる人』に変換してしまう人がいる。



後者になると、本人には「利用している」という自覚すら薄いことがあるんよ。そこが一番やっかいなんやと思う。




今私が困っているのに、食べ物をもって遊びに来られたらど発狂しそうになるわけよ。

しかも一人なら何か言われたらいかんけんと、挨拶もしないお友達も家に連れてきて、誰なわけ!?みたいな。

そこまでして近づいてくるなやと思う。