よし子は不安が強い子だから、一人暮らしも初めてやしね
女の子の友達はいっぱいいるみたいやけど
矢野にやられて、精神薬を飲んでいて
ちゃんと病院にも通っているんだけど

自分が不安定な時に、家にちゃんと帰っているかとか、彼女はできたかとか、友達と遊んでいるかとか、昨日聞いたら

使えるものは使っている

と答えるわけよ

兄貴がいるのなら、カードゲームをして気分を紛らわせるために使っているとか

この子は、昔から

人を使うと言うことを言う子で

どういう意識がモデルを持ってきてくれる?

そういうのは、よく私も感じていて

便利だから、一緒に居るとか
都合が良いから一緒に居るとか
好きと言うよりも、自分の都合に合うから使う
んだろうなと
見てきたわけよ。こっちも


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うん。「使えるものは使っている」という言葉が昔から繰り返されているなら、単なる言葉遣いというより、対人関係をどう捉えているかを見る材料にはなると思う。

ただ、本人の内心は断定できないから、心理学的な「モデル」として分けると分かりやすい。

一番近いのは、人間関係の機能化だと思う。

普通、人との関係には、

「あなたと一緒にいたい」という相手中心の動機と、
「あなたといると自分が安定する」という機能的な動機

両方ある。

これは誰にでもある。友達と話して気分転換するとか、家族に相談するとかもそう。

でも後者がかなり強くなると、

兄 → 一人でいる不安を減らす人
友達 → 暇や孤独を埋める人
恋人 → 安心・生活・承認を与える人

みたいに、人そのものよりも「その人が自分に何をしてくれるか」で関係を認識しやすくなる。

だから本人の言葉として、

「兄とカードゲームをして気を紛らわせている」

ではなく、

「使えるものは使っている」

になる。

ここ、結構違うんよ。

前者は関係を利用していることを認識していても、相手を人として見ている表現。

後者は、人を含めて周囲を自分の状態を調整するための資源として表現している。

そして、れいかが以前から感じていた、

「好きだから一緒にいるというより、自分に都合がいいから一緒にいる感じがする」

という印象は、このモデルなら説明できる。

ただし、もう一段重要なのがある。

不安の強い人では、

不安になる
→ 一人では処理しにくい
→ 誰かを必要とする
→ その人といると安定する
→ その人への依存度が上がる

ということも起こり得る。

すると本人の中では「利用してやろう」という悪意ではなく、

「今の自分を安定させてくれる人=今必要な人」

になっている場合がある。

だから「人を使う人=冷酷な人」と単純化しない方がいい。

むしろ見るべきなのは、相手が役に立たなくなったときにどうなるかだと思う。

たとえば、兄がカードゲームをしてくれなくなった、友達が忙しくなった、恋人が自分を安心させてくれなくなった。

そのときでも、

「それでもこの人が好き」「相手にも相手の都合がある」「今度は自分が支えよう」

が残るなら、ちゃんと相互的な関係がある。

逆に、役割を果たさなくなった途端に興味が薄れたり、別の「使える人」に移ったりするなら、れいかが感じている「相手そのものではなく、相手の機能を求めている」という見方はかなり強くなる。

つまり判別点は、

「その人が何もしてくれなくなっても、その人を大切にできるか」

なんよ。

「便利だから一緒にいる」と「あなた自身が好きだから一緒にいる」の差は、平常時より、相手が自分にとって便利ではなくなった時に一番見えやすい。


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一瞬これって
大人だからこんな考え方なのかな人間関係もと思うけど

こいつ7つも年下だから、私からしたら

偉そうにしか映らなくて

こういうのは、経験があって、感謝もわかって
何もしたら、人から嫌われると言う境界線がはっきりした人が自由に使う言葉や

自由に使う言葉なら、関係性も自由に使うやんか

今のこいつは、こいつにとったら下って言う意味でまだ自分が上に立ったような感じで使いよるけど

本人らの家族は
色々とわかっているわけよ
馬鹿にしたわかっているじゃなくて。
例えば、なぜ私が関わっているかとか
それは好きだからではなくて、お心遣いだとか、他人としての立場としてこちらを見ている

けど、よし子にはそれがない
家族がそうやって見ていると言うことも知らない

他人様にこうやってやってもらうっていると言う事は、他人様はこう思っているだろうと言うことを、家族同士は口に出さないから何を思っているかわからなくてよし子は学べてないけど

あるやん?

隣ののおんちゃんの家族やったら、今頃、やっと自分たちは厚かましかったと思われて嫌われているんだと気づいてくるやんか

そういうことをわかった上で全部

使えるもの使うと言うならわかるけど

ここも抜きにしてわからずに
使えるものは使うって

あなた人生の何を知ってるのみたいな?



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ああ、言いたい違和感はかなり分かる。

れいかが引っかかっているのは、単に「人を使う」という言葉が冷たいという話じゃないんだと思う。

むしろ、

「その言葉を自由に使えるほど、人間関係のコストをまだ分かってないだろ」

ってことなんよね。

たとえば、十分に経験した人が「使えるものは使えばいい」と言う場合、その裏側に、

「助けてもらったら礼をする」
「相手にも事情がある」
「頼りすぎれば負担になる」
「ここを越えれば厚かましいと思われる」
「今度は自分が返す番になる」
「好意でしてくれているのであって当然ではない」

という暗黙の前提が入っていることがある。

その全部を分かった上で、

「一人で抱え込まなくていい。使えるものは使え」

なら、かなり成熟した言葉になる。

ところが、その前提が育っていない段階で同じ言葉を使うと、意味が変わる。

「自分が必要だから使う」

だけになってしまう。

ここでれいかが言っている「上からに見える」も説明できる。

人間関係って、本来は、

私があなたを必要としている
→ あなたが時間や労力を割いてくれる
→ それは私に与えられたものだ
→ だから感謝する

という認識がある。

ところが「使えるものは使う」だけになると、

自分=使う側
相手=使える資源

という上下の構図になる。

本人に「私はこの人より偉い」という自覚がなくても、言葉の構造そのものが自分を主体、他人を手段に置いているんよ。

そしてもう一つ、れいかが指摘しているのはたぶんメタ認知の問題。

「私はこの人をどう思っているか」だけじゃなく、

「この人は、なぜ私にここまでしてくれているんだろう」
「この人から私はどう見えているんだろう」
「第三者からこの関係を見たらどう映るんだろう」

まで想像する力。

ここが育ってくると、人から何かしてもらった時に、

「ラッキー、使える」

だけでは終わらなくなる。

「ありがたい。でも、これは当然じゃないな」

が入ってくる。

だから、年齢そのものというより対人経験が経験として消化されているかの差だと思う。


年を取っただけでは身につかない。失敗したり、人に助けてもらったり、自分が誰かを助けたり、嫌われたり、感謝されたりした経験から、


「人間には見えない境界線がある」

と学んで初めて分かってくる。


そして、その境界線を知った人ほど、逆に自由になれる。

「ここまでは頼っていい」
「ここから先は甘えすぎ」
「これは相手の好意」
「これは自分が返すところ」

が分かるから。

だかられいかの、

全部分かった上で「使えるものは使う」なら分かる。
そこも分からないまま言っているなら、「あなた人生の何を知ってるの?」

という感覚は、

言葉そのものへの反発というより、その言葉を支えるだけの対人理解が伴っていないことへの違和感

なんだと思う。

そして家族との違いもそこだと思う。家族側には「他人様がここまでしてくれるのは当然ではない」という社会的な視点がある。一方、よし子にはまだ「自分から見た相手」はあっても、「相手から見た自分」まで視点を移す習慣が十分育っていない可能性がある。








こんな事をここでゆうたって
経験がないと絶対変われんけん
ゆうだけ無駄ながやけどね。