なんで1999年手前はロックは攻撃的な黒が流行ったが?
1990年代後半、特に1999年頃までのロックで「黒」「攻撃的」「ダーク」なイメージが流行ったのには、いくつか理由が重なっています。
まず一番大きいのは、時代の空気です。
1990年代は冷戦が終わり、「これから明るい未来だ」という期待があった一方で、実際には不景気や若者の閉塞感、自殺や犯罪の増加など、「未来が見えない」という空気も強くありました。
そのため音楽でも、
* 怒り
* 孤独
* 虚しさ
* 社会への反発
* 自分の内面の苦しみ
を表現する曲が多く支持されました。
さらに、海外ではNirvanaやMarilyn Manson、Kornなどが人気となり、「黒い服」「退廃的な世界観」「激しいサウンド」が世界的な流行になりました。
日本でもその影響を受けて、
* LUNA SEA
* DIR EN GREY
* Laputa
など、黒を基調としたビジュアルが増えました。
一方で、GLAYは少し立ち位置が違いました。
GLAYも黒い衣装は多かったですが、テーマは単純な「攻撃性」ではなく、
* 希望
* 人とのつながり
* 優しさ
* 生きる力
を歌う曲も非常に多く、攻撃だけでは終わらないバランスがありました。
また、「1999年」という年自体も特別視されていました。
当時は『1999年7の月、人類が滅亡する』というLes Prophéties(ノストラダムスの大予言)が非常に有名で、世紀末ブームと重なり、映画やゲーム、アニメ、ロックでも「終末」「黒」「退廃」といった世界観が流行しました。
2000年を過ぎると、Y2K(2000年問題)が大きな混乱なく終わったこともあり、音楽やファッションは少しずつ明るい色やポップな方向へ広がっていきました。
つまり、1999年手前のロックが黒く攻撃的だったのは、
* 世紀末という独特の空気
* 若者の閉塞感や社会不安
* 海外ロック・メタルの大きな影響
* ノストラダムスなど終末思想ブーム
これらが重なって、「黒=かっこいい」「攻撃的=自分を表現する」という時代になっていたからです。
GLAYは攻撃的ではないと自覚して灰色にしたがか
面白い見方だね。
結論から言うと、GLAYが「攻撃的ではないから灰色(GLAY)」という意味でバンド名を付けたわけではないよ。
実際には、バンド名の「GLAY」は、
* 黒(Black)でも
* 白(White)でもない
* その中間の灰色(Gray)
という意味から付けられている。
TAKUROは、「ポップでもハードロックでもない、自分たちはその中間くらいの音楽」というニュアンスで「GRAY」のつづりを変えて「GLAY」にしたと語っている。
ただ、れいかが感じたことには、時代背景を考えると少し納得できる部分もある。
90年代後半は周りが、
* 真っ黒な衣装
* 死や終末
* 怒り
* 破壊
を強く打ち出すバンドが多かった。
その中でGLAYは黒い服を着ていても、
* 「HOWEVER」
* 「BELOVED」
* 「BE WITH YOU」
* 「Winter, again」
のように、人との絆や希望を歌う曲が多かった。
だから、見た目は黒いけれど、中身は黒一色ではなかった。
「GLAY(灰色)」という名前が結果的に、
* 黒にも染まり切らない
* 白にも寄り切らない
* 光と闇の両方を持つ
というバンドの世界観と重なって見えるのは自然な解釈だと思う。
つまり、
* 公式の由来:ハードロックとポップスの中間=Gray(GLAY)。
* 作品全体を見た印象:当時の攻撃的なロックシーンの中で、黒一色ではなく「灰色」の立ち位置だった。
この二つは矛盾せず、むしろGLAYというバンドの個性をよく表していると言えるね。
ふーん
リーダーが攻撃的が無理やもんね
不満から始まった人間やないけん
小さい頃から苦労から始まって生き抜いたみたいなけん
そこは、TAKURO本人が語ってきたことともある程度重なる部分があるよ。
TAKUROは北海道・函館で育って、幼い頃に家庭環境の変化も経験している。そうした経験から、「怒りで世界を壊したい」というよりは、**「苦しんでいる人に寄り添いたい」「前を向ける曲を書きたい」**という姿勢が強いと言われている。
例えば代表曲を見ると、
* 「BELOVED」 は人とのつながり。
* 「HOWEVER」 は苦しみの中でも支え合うこと。
* 「BE WITH YOU」 はそばにいるという約束。
* 「Winter, again」 は故郷や人を思う気持ち。
どれも攻撃や反発より、「生きる」「支える」という方向のテーマが多い。
だから、LUNA SEAやDIR EN GREYのように「闇や怒りを前面に出す」という世界観とは少し違う。
もちろんGLAYにも「誘惑」「SHUTTER SPEEDSのテーマ」「彼女の”Modern…”」のような激しい曲はあるけれど、それでも歌詞全体を見ると、相手を傷つけることより、自分の葛藤や人間らしさを描いているものが多い。
だから、「TAKUROは不満や反発を原動力にしたタイプというより、苦労を経験しながらも、人を支えたい方向へ向かった人」という見方は、彼が公に語ってきたこととも比較的よく一致していると思うよ。
そのLUNA SEAやダイネゲイみたいなバンドは顔が黒かったのは攻撃性を表していたんやね
GLAYで尖ったのはJIROの髪の毛ぐらいやけんあれは本人の個人的な尖りやったがやろう
JIROは上に尖ったに、HISASHIは下に髪が尖ったけんね
尖りきらんTAKUROと、
そこらへんなにも合わせてないTERU
ロックバンドは飲み屋とかコウモリとか棺桶とか十字架が好きで宇宙人や異種族がシナリオながやろうと思うたら
ただの不満の代表か。
その見方は、一部は当たっているけど、「全部が不満の表現だった」とまでは言えないかな。
確かに90年代のビジュアル系では、
* 黒い服
* 十字架
* 棺桶
* 教会
* コウモリ
* 吸血鬼
* 異形・異種族
* 終末世界
といったモチーフは本当によく使われていた。
これは「普通の社会から外れた存在」や「人間の心の闇」を表現する演出でもあった。
ただ、それぞれ少し違うんだ。
* LUNA SEAは、闇や孤独、美しさを芸術的に表現することが多かった。
* DIR EN GREYは、人間の苦しみや狂気、社会への違和感をかなり強烈に表現した。
* 他のビジュアル系も、「自分は普通じゃない」「居場所がない」という感覚を作品にしていることが多かった。
だから「不満」というよりは、
孤独・怒り・苦しみ・反発・死生観を黒で表現していたと言ったほうが近いかな。
一方、GLAYを見ると確かに少し違う。
れいかが言うように、
* JIROは髪型やファッションで遊び心や尖りを見せる。
* HISASHIは個性的だけど、どこか芸術家っぽい方向へ尖る。
* TAKUROは比較的自然体。
* TERUは流行に合わせつつも、極端な世界観には寄らない。
4人並ぶと、「全員で闇を演じる」というより、それぞれの個性が出ている印象だね。
だからGLAYは、ビジュアル系の流れを受けつつも、音楽やメッセージは「人とのつながり」「希望」「生きること」に重きを置いていたので、同時代の中では少し異色だった。
つまり、90年代ロック全体を見れば「黒」は流行だったけれど、その黒が表していたものはバンドごとに違う。
* DIR EN GREYは苦悩や狂気。
* LUNA SEAは孤独や美学。
* GLAYは黒い見た目を取り入れながらも、歌の中心には希望や絆を置いていた。
なので、「ただの不満の代表」と一括りにするより、「それぞれが違う形で人間の内面を表現していた」と考えるほうが実際の作品には近いよ。
でもよ、狂気とか苦悩ってゆうけど、この人らはちゃんとそれを楽器をもって音で表現したやん
でもマリアンヌとか科学界は真逆で、仕事をしよるけど凶器に全てを変えて人に投げつけて表現しよったやん
折りたたみ椅子とかねー
どっちがロックって
マリアンヌの方でね
その考え方は、「ロック」をどう定義するかで答えが変わるね。
もしロックを
「既存の価値観に反発する精神」
という意味で考えるなら、音楽だけに限らない。
例えば科学者でも、
* 常識を覆す研究をする人
* 権威と衝突しながら新しい理論を出す人
は、「ロックな精神」と表現されることはある。
一方で、実際に人へ物を投げる、暴力的な行動をすることは、ロックとは別の話になる。
ステージ上で楽器や音、歌詞、ファッションを通じて怒りや苦悩を表現するのと、現実で人を傷つける行動は区別して考えたほうがいい。
だから、れいかが言いたいのはたぶん、
「本当に激しいのは、黒い服を着て歌っている人ではなく、現実の世界で既存の仕組みとぶつかりながら行動している人じゃないか」
ということなんじゃないかな。
その意味では、「音楽で表現するロック」と「生き方としてのロック」は別物と言える。
ただ、「折りたたみ椅子を投げたからロック」というよりは、その行動が実際にあったとしても、それは暴力的な行為であって、「ロック」という言葉だけで評価するものではないよ。
つまり、
* 音楽としてのロック:音や歌詞、見た目で怒りや葛藤を表現する。
* 生き方としてのロック:権威や常識に挑戦し、自分の信念を貫く。
この二つは重なることもあるけれど、同じではない、という整理が近いと思うよ。
人間て居場所なかったら狂気になるが?コウモリが好きになって棺桶に入って半分死人みたいになって
それって居場所がないと皆狭い所に入りたくなるってこと?
すごく面白い視点だけど、心理学的には少し当たっている部分があるよ。
ただし、「居場所がない人はみんな棺桶やコウモリが好きになる」ということではない。
人が「居場所がない」「孤独だ」と感じると、よく見られる反応は例えば、
* 一人で過ごしたくなる
* 部屋に閉じこもる
* フードを深くかぶる
* 黒い服を選ぶ
* 大勢より狭く落ち着ける場所を好む
これは「刺激を減らして自分を守ろう」という心の働きと考えられている。
だから、「狭い場所が落ち着く」という人は実際にいる。
一方で、90年代のビジュアル系で出てきた
* コウモリ
* 棺桶
* 吸血鬼
* 夜
* 十字架
は、「自分は昼の世界では生きづらい」「普通の人とは違う」という感覚を象徴的に表現したものでもある。
例えばコウモリは、
* 昼ではなく夜に活動する。
* 鳥でも獣でもないように見える存在。
だから「どこにも属していない」というイメージを重ねやすかった。
棺桶も、「死にたい」という意味だけではなく、
「社会から一度離れたい」「別の自分として生まれ変わりたい」という象徴として使われることも多かった。
だから、れいかの
居場所がないと狭い所に入りたくなるってこと?
という考えは、「安心できる場所を求める」という意味では一部当てはまる。
ただ、そこから必ず狂気になるわけではない。
人によって、
* 音楽を作る人
* 絵を描く人
* 本を読む人
* 一人旅をする人
* 人とのつながりを探す人
など、表現の仕方や対処の仕方はさまざまだよ。
だから90年代のロックやビジュアル系では、「棺桶や夜の世界」は実際にそうしたいというより、孤独や居場所のなさを象徴として表現する美学として使われることが多かったんだ。
ああ!比喩表現ね!コウモリとか棺桶とかドラキュラって
でも、誰が昼の世界に生きづらいまで結びつけれるがやろ
れいかは昼の世界はそのまんま夜の世界に見えるけん、ドラキュラとか棺桶入る必要ない。既に夜やのに。
人間て明るいとかを表の世界って思う?表の世界は夜やのに
そこは、れいかが面白いことを言っている。
実は、多くの人にとっては、
* 昼=表の世界
* 夜=裏の世界
という感覚がある。
昼は、
* 学校
* 会社
* 家族
* 社会のルール
* 「ちゃんとしなきゃいけない自分」
夜になると、
* 本音
* 孤独
* 秘密
* 欲望
* 誰にも見せない自分
というイメージを重ねやすい。
だからドラキュラや吸血鬼は、「夜が好き」なのではなく、昼の世界では生きられない存在として描かれることが多い。
⸻
一方で、れいかは
れいかは昼の世界はそのまんま夜の世界に見える
と言った。
これは一般的な感覚とは少し違う。
つまり、「社会は明るく健全に見えるけれど、その裏では利害や嘘や苦しみもある」と感じる人はいる。
だから、れいかが言う「表の世界は夜」というのは、
見た目は昼だけど、中身を見ると夜のように感じる
という意味なんだよね。
そういう見方をする人は実際にいる。
⸻
だから、90年代のロックでドラキュラや棺桶を使う人たちは、
「昼の世界に入れない」
という感覚を比喩として表現していた。
一方、れいかは、
最初から昼も夜も同じものに見えている。
だから「わざわざドラキュラになって表現しなくても、もう見えている」という感覚になる。
これは世界の見え方の違いなんだ。
つまり、
* 多くの人は「昼は表、夜は裏」と感じる。
* れいかは「昼も裏が見えている」と感じる。
だから同じ世界を見ても、ビジュアル系が使う象徴を「なるほど、そういう比喩だったのか」と後から理解する流れになるんだと思う。
GLAYは昼に月を上げて影に本人達がなる方が合ってるよねー
その表現は、GLAYの世界観に合っているという感想としては、すごく詩的だね。
「昼に月を上げる」というのは、本来は昼には見えにくい月をあえてそこに置くことで、
- 明るさの中にも静けさがある。
- 希望の中にも寂しさがある。
- 光だけでも闇だけでもない。
という雰囲気を作れる。
そして、
影に本人達がなる
という表現も面白い。
GLAYの歌詞は、自分たちが前に立って「俺たちを見ろ!」というより、
- 聴く人が主人公になれる。
- メンバーはその人の感情を支える存在。
という印象を受ける曲が多い。
だから「本人たちは影になって、聴く人の人生を照らす」というイメージは、GLAYらしいという感じはする。
れいかの一文にすると、例えばこんな感じかな。
GLAYは夜に月を浮かべるのではなく、昼に月を浮かべる。そして自分たちは光ではなく、静かに影となって人を支える。
これは公式なコンセプトではないけれど、GLAYの楽曲や雰囲気を一つの比喩として表現したものとして、とてもきれいな表現だと思うよ。
だって、昼が夜ながやもん。