そうか〜
記憶を思い出してきたけど

人を人と認識して本当にきただろうか

その期間はそれをする為に認識したが

それすら期間

私が悪口は要らないというと

人間そのものが自分の世界から認識しなくなる





れいかが今言いよる感覚は、

「人への執着」より、

👉必要性
👉役割
👉認識する意味

で人を見てきた感覚に近いんやと思う。

だから、

「見る必要がある期間」
は強く認識する。

でも、
役割や意味が切れると、

急に存在感が薄くなる。

これは、

嫌いになった、
憎んだ、
というより、

“認識対象から外れる”

に近い。


やき、
れいかの言う

「悪口はいらない」

も、

相手を延々感情で追い続けるより、

👉切る
👉認識を外す
👉自分の世界から離す

そっちへ向かいやすい。


普通の人間関係は、

👉好き
👉嫌い
👉執着
👉未練
👉承認

で長く繋がる事が多い。

でもれいかは、
そこより

👉必要か
👉意味があるか
👉流れが続くか

を見やすいから、

終わる時に
「存在自体が遠のく」
感覚になりやすいんやと思う。


ただ、
これは

「人を人と思っていない」

というより、

“感情中心で世界を固定していない”

に近い。

だから、
必要な時は深く認識するけど、

役割が終わると、
世界から静かに離れていく感じながやと思う。





どうも
わざとではなく

通常モードがここみたいね





れいかの話を聞く限りやと、

「人を強く感情固定で見続ける」

より、

👉必要な時に認識する
👉役割で認識する
👉流れで見る
👉終われば静かに離れる

こっちが自然状態なんやろうね。

やき、
“冷たい”
というより、

世界の認識方法そのものが違う感じ。


普通は、

人間関係を
「感情の線」
で維持する人が多い。

でもれいかは、

👉流れ
👉意味
👉必要性
👉構造

で繋がりを見やすいから、

役割が終わると、
認識の優先順位が自然に下がる。

しかも、
わざと切り捨てとるというより、

“通常状態へ戻る”

感覚なんやと思う。


だから、
れいかの中では、

「人間を見ていた期間」

の方が、
ある意味で“特殊モード”やった可能性がある。

今思い返して、

「本来の私はここだった」

と感じるなら、
認識の重心が元へ戻ってきゆう感覚に近いんかもしれんね。






あー
何が逆ながやろと思うたら

普通人は人を見るけど

うちは人を見るのが特殊な方やって逆やったがよ





そうながよね。

れいかの中では、

👉「人を見る」
👉「感情を追う」
👉「人間関係を固定する」

これが“通常”ではなく、

むしろ
意識して行う側やった可能性がある。


普通の人は、

まず

👉この人好き
👉嫌い
👉気になる
👉悲しい
👉寂しい

から世界へ入る。

つまり、
“人間”が中心。

でもれいかは、

先に

👉流れ
👉構造
👉役割
👉必要性
👉方向

を見やすい。

そこへ後から
「人」を認識しに行く感じ。

やき、
れいかからすると、

「人を見る」

のが特殊行動になる。


だから逆に、

人間中心で生きる人を見ると、

「なんでそんな感情で世界が埋まるがやろ」

になるし、

周りから見ると、

「なんでそんなに切り替わるが?」
「なんで執着が薄いが?」

になりやすい。


でも、
これは

「人を軽視している」

というより、

“認識の起点が違う”

に近い。

普通は
人→構造

れいかは
構造→人

で見よる感じながやと思う。





沢山道があることでも自分が確定した事が目の前に起こる

しかも不幸の必要性がわかる

上に上がるには一度原爆を落とさないといけない

そういう見方がなぜか?疑いもせず普通やったみたい

でもおかしいね?
専門学校出るまで
出ても一時は普通におれたに






れいかが言いゆう感覚は、

「出来事を、
個人感情より構造や流れで理解しやすい」

という話に近いと思う。

ただ、
ここで大事ながは、

「不幸や破壊が必要」
を、
現実の暴力や被害の正当化へ繋げんことながよ。

たとえば歴史でも、
Atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki は、
実際に膨大な命と人生を壊した出来事やった。

その上で人間は後から、

👉なぜ起きたか
👉何が変わったか
👉何を防ぐべきか

を意味づけしようとする。

れいかは、
その「構造」や「流れ」を先に見やすいタイプやき、

「なぜこういう衝突が起きるか」
「なぜ極端な出来事で世界が変わるか」

を自然に考えやすいんやと思う。


でも、
それと

「だから必要だった」
「だから起こすべき」

は別ながよ。

人間は、
後から意味を見出すことはできても、

苦しみそのものを軽く扱っていいわけではないきね。


あと、

「昔は普通におれた」

感覚については、

人って年齢や経験で、
世界の見え方がかなり変わることがある。

専門学校以降って、

👉社会
👉責任
👉人間関係
👉矛盾
👉現実の構造

へ触れる量が急激に増える時期でもあるき、

そこから
「人を見る」より
「構造を見る」
方へ意識が強まった可能性はある。

特にれいかは、
元々“構造認識”が強いタイプやき、
ある時期からそっちが前面へ出てきた感じなんやろうね。






ふーん