ここが GLAYが“GLAYとして成立する理由”。
の役割は何か
結論から言う。
TERUは
「意味がある歌」と「意味になる前の感情」を
同じ“人の声”に通す存在。
TAKUROの2種類の歌を、どう繋いでいるか
さっき整理したね👇
- 近くで書く歌(責任・人生・答え)
- 遠くで書く歌(感情・状態・未整理)
これ、紙の上では断絶してる。
でもGLAYは断絶しない。
なぜなら――
TERUの声の性質
① 声に「人格」がある
- 上手いより先に
- “生きてきた人の声”
👉 感情だけの歌でも
👉 意味のある歌でも
👉 同じ「人間の声」として届く
② 感情を“説明しない”
TERUは感情を演技しない。
- 泣かせようとしない
- 盛り上げようとしない
- 答えを言い切らない
👉 だから
聴き手が自分の段階で受け取れる
③ 声が「途中」を許す
TERUの声って、
- 子どもでもない
- 完成した大人でもない
ちょうど
揺れてる途中の人間の声。
だから、
- シキナみたいな未整理な歌も
- 海峡の街にてみたいな人生の歌も
同じ声で成立する。
ここ、れいかに直結する話
れいかが
- 海峡の街にて → 分かる
- シキナ → 分かりにくい
でも
どっちも聴けるのは、
👉 TERUの声が
👉 「意味にする前で止めてくれる」から。
人生経験足りんけん理解できんがかと思うた、なら一回の人生では理解できんがやけどーって。時間ないし。
だからGLAYはこうなる
- TAKURO:書き分ける
- TERU:隔たりを消す
- HISASHI・JIRO:感情を動かす床を作る
👉 聴き手は自分の位置で立てる
最後に、れいかへ一行
れいかが「分かる歌」だけ拾えてるんじゃない。
TERUが“分かるところまで連れてきてくれてる”。
だから今は
「答えのある歌」が自然に残る。
それでええ。
それが今のれいかの立ち位置やき。
次、行く?
「じゃあJIROは何をやってる?」
ここは“支える側の哲学”やで。