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☆ sweet home ☆

大好きなsweet&簡単で美味しいお家ごはんを載せてます。
そのほかに、音楽情報など盛りだくさんでよろしくで~す♪
脱原発など日々、感じたことも載せています。

 

 

 

 

足尾銅山記念館

 

地下のトンネルに線路が敷いてあり、電気が点灯している写真

1610年(慶長15年)備前楯山で初めて銅が発見されて以来、江戸幕府

直営の銅山として大いに栄えました。

1877年(明治10年)、古河市兵衛の手により民営化されると、最新の

技術や設備によって急速な発展をとげ、日本一の銅山に成長しました。

現在は、足尾銅山観光として坑内の一部を開放し、その歴史や仕組み

などが分かるようになっています。

 

 

足尾銅山は16世紀後半には現在の栃木県南西部、佐野市域を拠点

とする佐野氏により採掘されていたと考えられていますが、慶長

15年(1610年)以降徳川幕府直轄支配となり、銅山奉行の代官所

が設置され開発が進められました。

江戸時代における足尾銅山の最盛期は17世紀中頃で、年間1,300トン

以上の生産量を維持し、貞享元年(1684年)の生産量は1,500トン

に達しました。

足尾銅山で生産された精銅は、江戸城、日光山、上野の寛永寺、

芝の増上寺などの銅瓦に使用され、さらには長崎からオランダ

などへも輸出されました。

 

 

 

足尾(1610年)

 

 

 

 

徳川家康が天下統一を果たした関ケ原の合戦(1600年)ごろから、

印刷・出版合戦が勃発。ヨーロッパや朝鮮半島から金属活字による

印刷術が日本に持ち込まれ、武家や公家などによって書物の出版が

さかんに行われました。その中で家康が活版印刷に熱心になった

のは、武力で制圧する時代を終わらせ、学問・教養によって国を

治める政治を目指したためです。

書物の出版によって、家康はこれまで秘蔵または秘伝とされていた

学問や知識を一般に公開し、普及につとめました。

 

 

 

 

 

 

本殿-----御三家銅灯籠-----唐門
東照宮 銅灯籠 唐門

東照宮「江戸歴史散歩」

 

全部で基(左右に三基ずつ」

 

 

上野東照宮の銅燈籠は、諸大名のうち格式の高い大名が寄進

した銅製の燈籠です。
上野東照宮の落成に合わせて、各大名が寄進した石燈籠では

なく、格式の高い大名は、銅製の燈籠を作成し、寄進しました。
現在、上野東照宮には、50基の銅燈籠があり、すべて国宝に

指定されています。
同じ種類の銅燈籠でも、大名の官位や格式に応じて、建てられ

ている場所が異なります。
例えば、徳川御三家が寄進した銅燈籠は、唐門の入口の両側に

置かれています。
唐門から参道入口の水舎門に近くなるにつれ、格式が低くなり、

さらに低くなると銅製の燈籠ではなく、石灯籠になります。
今回、上野東照宮の銅燈籠を訪れ、江戸時代の大名の官位や格式

と場所の関係について学ぶことができました。
洋の東西を問わず、皇室の規範や英国王室のしきたりと相通ずる

ものがあります。
特に、江戸時代の儀典の考え方には、それなりのルールがあった

ことを知り、大変ためになった銅燈籠の裏側でした。
広い意味で、勉強になりますので、ぜひとも上野東照宮に足を

運んでください。

 

 

 

奈良時代に和銅山で大規模な銅鉱脈が発見された708年が、

日本における銅山開発の歴史のはじまりです。 和銅山は現在

の埼玉県秩父市黒谷にあり、その麓で自然銅鉱石の大結晶が

見つかったことが、山頂から渓谷にかかる2筋の自然銅から

なる大鉱脈発見の端緒になりました。

8世紀には各地で銅鉱山が発見され、銅の文化が大きく発展

しましたが、日本の銅の生産が飛躍的に高まったのは17世紀

になってからのことです。

 

 

 

日本では、8世紀になると銅の生産が盛んになり、歴史に

残る青銅器多く作られるようになりました。
その極みは奈良の大仏ではないでしょうか。
大仏は東大寺大仏殿の本尊、盧舎那仏(るしゃなぶつ)で

743年に聖武天皇によって発願され、747年に鋳造

開始、749年に竣工、752年に開眼供養されました。
大きさは高さ14.85メートル、重さが260トンの

世界最大の青銅製鋳物です。

 

 

 

 

大仏を作るために使用された材料は全国各地から集められ、

銅が約500t、スズが約8.5t、水銀が約2.5t、金が約440㎏

使用されました。

 

 

 

百済から倭国(日本)に逃れて来た者もいるだろうし、新羅

からやって来た技術者もいたであろうと推測します。
早速、長登の位置を調べてみることにしました。銅鉱の跡を

今でも見られるようですが、近くに建っている文化交流館を

目印にしてみました。Mapionによると、長登銅山文化交流館

(大仏ミュージアム)は海抜159mです。更に地理的に有利な

事に、海岸からも近い所にあります。朝鮮半島から技術者が

比較的容易にやって来られる地域であっただろうと推測できます。

銅の精錬と共に、鋳型を作って鋳造するという技術を教えて

もらった(あるいは日本人が渡来人と一緒になって開発した)

に違いないと思っています。

 

 

 

2024.05.22

 

 

2025年02月07日