野にくだった帝国官僚岡倉覚三
職務に関連して不法行為をはたらき、私生活上で身の破滅を招くような問題を起こすという師フェノロサの行動特性は、そのまま弟子の岡倉にも現われる。
30歳をすぎたころから、岡倉は上司の九鬼隆一の妻はつと不倫関係に陥った。別居して岡倉の自宅近くに越して来たはつの家に連日通いつめ、酒に溺れて傍目にも乱れた生活を送る。(はつは、九鬼とはつの息子の周造と同居していた。のちの京都大学哲学科教授、『「いき」の構造』の著者、九鬼周造である。)結果的にはつは精神を病み(躁鬱病か)、死の直前の1931(昭和6)年まで巣鴨脳病院で過ごすことになる。
1980(昭和55)年、平凡社版『岡倉天心全集』別巻が出版され、掲載されていた年譜と系図(pp. 400, 441.)によって、岡倉の醜怪な行動が明らかになった。はつとの不倫の一方、岡倉は姪のさだ(異母姉よしの娘)との不倫を同時進行していた。そのさだとの間に息子、つまり覚三の二男で庶子の和田三郎(1895-1937)が生まれていた。和田三郎は東京帝国大学を卒業して医師となり、巣鴨脳病院の病室で偶然はつと対面する。
はつ・さだ・三郎をめぐる経緯は、松本清張『岡倉天心 その内なる敵』(1984年、新潮社)に詳しい(pp. 3-20, 91-124.)。しかし清張の岡倉評価は、岡倉の私生活にだけ力点をおいたものではない。清張は、岡倉の一見大胆な行動や、独特の「野人」的性格と見えるものも、しょせんは帝国官僚としての特権に立脚したものであり、彼個人の力量や性格などではないことを正当にも指摘する(pp. 79-80.)。
1898(明治31)年、35歳の時の東京美術学校長失脚とそれにひきつづく「日本美術院」の設立、さらにその崩壊にいたる経緯について、清張は、岡倉礼賛者たちの大甘の弁護論をしりぞける。東京美術学校長失脚は、日本美術一辺倒=西洋美術排除の偏狭さと、高圧的な経営姿勢がもたらした結果である(pp. 83-88.)。岡倉はみずからの失脚後、美術学校教員だった「弟子」たちを連座して辞職させた上で、思い付きのように「日本美術院」設立へと突っ走る。資金のあてもなく、ビゲローに1万ドル無心して凌ごうとするが、国家権力の後ろ盾をもたない民間組織の経営にはすぐに行き詰まってしまう。持ち前のあきっぽさからすぐに放り出し、横山大観・菱田春草ら弟子たちとその家族を極貧の状態に陥れ、大観の妻の死や春草の眼疾と夭逝などの悲惨な結果をもたらした。
のちにノーベル賞を受賞するインドの詩人タゴールが岡倉にいたく共感し、1916(大正5)年の来日時に、わざわざ五浦を訪ねて岡倉を偲んだという逸話がある。しかしこれも「日本美術院」と弟子たちの窮状から逃避してインドを旅行した際に、イギリス植民地インドで「独立運動」を無責任にあおってみせた岡倉の大言壮語にタゴールらが過剰に感動した結果にすぎない。日本帝国の朝鮮・中国侵略を正当化する岡倉の発想からみて、岡倉の「インド独立」への思いなどは真に受けるようなものではない(pp. 201-11.)。
インドからの帰国後、岡倉は軽々しく大観と春草にインド行きを指示した。しかし、インド滞在時の岡倉の言動がマークされていたため、あやうく二人の滞在先のタゴールの親類まで巻き込んで、イギリス官憲による弾圧を招きそうになった(pp. 217-19.)。