白洲正子の高度な知性とはぎれのよい文体は読んでいて気持ちがいい

最近お能を見ることがなんどかあったのでこの文章にひきつけられた。


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「隅田川」の母親が亡き我が子の幽霊とめぐり合い、手をとり合っている間

に夜はほのぼのと明けていき、我が子とみたのは塚の上の柳であったと

絶望に沈む場面。


「井筒」では、在原業平の恋人の亡霊が、業平の想い出をめんめんと

語った後、夜明けのとともに草茫々たる荒野の中に消えて行く寂寥感。

また、「江口」の遊女が普賢菩薩に化身して、昇天する気色など、

およそ拍手に似つかわしくはない。


シテは幕に入り終わるまで、その情趣を気をぬかずに保ちつづけている

のだから、終わったあとまでも舞台の上に濃密な余韻が残る。


そのもっとも大切な沈黙の時間を、心ない拍手によって打壊してしまう

のは、現代の暴力としか言いようがない。


「鉢木」とか「安宅」のように颯爽と引き上げていくものは思わず拍手で

送りたくなる。

そのかねあいがむつかしい。要はほんのちょっとした心遣いのあるなしに

関わっているのだろう

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ざっとこんな内容なのですが、クラシックにおいても同じことがいえますね

いい演奏はしばし拍手がおこりません。

しばらくしてわーっと歓声があがることがよくあります。

余韻というものはほんとに大切なものだと思います。


能の世界はよく知りませんがやはり拍手をするべきでないものも

あるということを知りました。