最近、見える世界がいとおしい
と感じる瞬間が ますます増えて
グっとくるものを 胸の辺りに感じてる
そんな感覚に襲われる日々を
楽しんでます。
今日は、スーパーの食品売り場で
誰かが誰かを呼び止める、
その瞬間に 何故かグッときた私
私の知らない 誰かと誰かが
売り場の片隅で「あら!」「あら!」
みたいに挨拶を交わす瞬間を横目にした、
ただそれだけのことなんだけど。
そして、その誰かには小さな子供がいて、
「大きくなったねぇ」
と 笑顔を向ける、それがなおさら
いとおしさを増すのは よくある情景かも。
こういう瞬間に グッとくる時、
もはや魂と魂の交流を見ているんだなと
言葉にならない感覚になる自分がいて。
それは、都会のスクランブル交差点の片隅で
一瞬の 魂と魂の触れ合う瞬間の煌めきを見たような、そんな感覚に似ている?のかな。
ん?例えが例えになってない?
あはは、そうかも (`・ω・´) ☆
魂たちはお互いに、
いつもこんな瞬間を楽しんでいて、それは まるで 宇宙旅行者の気分に似ているのかもしれないですね。
そんな感覚?が一気に 私の中に入ってくる。
いや、それさえも言葉にできなくて
そして一瞬。
それでいうと、私も
御多分に洩れず、宇宙旅行者で。
だからこそ地球での経験にグッとくる日々。
最近の私は、自分の好きを感じてる。
自分の感情が混乱していた過去もあったから、「好き」を感じられる瞬間はただ純粋に嬉しい。
一度「好きがわからなくなる」経験をしたら その感覚を取り戻した時の喜びは大きくて。その経緯をセットで経験したかったのだな と今となっては思う。
下がって上がって、1セット。
(陰陽の法則からみてもセットな感じ)
今は、「好き」「楽しい」を感じられるようになった自分の心にありがたさを思うし、
それをより一段階深く感じられる自分になるためにも、敢えて下がる経験が必要だったんだなと思う日々。
つらい日々は、気づきと喜びに繋がる伏線
せっかく地球に旅行に来たのだから、
純粋に好きを楽しみたい。
もちろん、付加価値や目的意識もあるだろうし、何となく「これはやるべきな気がする」という感覚は人生の中で何度もあるだろうから、人によってもそれぞれ違うだろうけど。
先日は、
この場所に、久しぶりに来て。
土地の波動を感じながら
少しここで写真を撮る・・・
ここは 好きな場所のひとつ
ただ ただ好きな瞬間を味わう
短いけれど 大切な時間
その時 直感的に湧いてきた感覚は
何者にもならなくていい。
私は私の「好き」を表現する。
私は 私になっていく。
ってこと。
写真を撮っていると
魂が喜んで 心が震えているのが
わかる瞬間があって、
それが とても嬉しくて
また 心が震えた・・・。
魂の私と 顕在意識の私の交流。
表現する・・・
この場合のそれは、形に現すより前の、
「湧いてきた気持ちを行動に移す」ということ。
私の魂の表現者は「私」だから、
私が行動に移さないと 魂は途方に暮れちゃう。
形にする、それ以前の話。
「写真を撮ることを楽しむ」
という行動そのもの。
「〇〇したい」と感じている
自分の気持ちを叶えること、そのもの。
その純粋性を楽しむ。
そこに 正しさも、
失敗に対する恐れも いらない、
というより 「ない」んじゃないかな
純粋に「自分を叶える」をやっている時、
成功や失敗や正しいか間違ってるかなんて、
念頭にも及ばなくなるのかもしれないね。
「好き」の純粋性を楽しむ。
地球滞在期間には限りがあって、あなたと私がこうして出会っているのも、瞬間の煌めき。
それはまるで、線香花火のような。
目に見えるものすべてが
ただ ただ、いとおしい
日々の何気ない会話ややり取りも。
私が選んでるかけらたち。
そして この瞬間も ここで
出逢ってくれている人がいる奇跡。
奇跡を織るように 日々はあるんだろう。
それを豊かに織り成す糸、
その煌めきを思う。
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最近たくさんの人の優しさに触れて
心底 嬉しくて、心震えた。
本当に・・・ ありがとうございます。
我が家のことで言えば、
長男は進路を決めて、なにか少しエネルギーが変わった。次男も 次男らしくサナギ形態から進化中。
どちらにしても私は、私にできることを見極めながら感じながら自分を生きる。
子供たちも自分を生きている。
共鳴しながら高めあえるって素敵。
いいも悪いも超えたところで。
家族って、本当に素敵。
大変(に思えた)日々は、
この喜びたちを連れてきてくれたから、
やっぱり感謝でいっぱいです。