これから宮本武蔵「五輪書」新解釈by87wa39の考察に基づいて、岩波文庫の原文をなるべく忠実に、しかし文意の通じない箇所については写本の誤写という観点から底本とは異なる独自の解釈を加えて「五輪書」の全訳を試みます。文中の赤字下線部は岩波本の解釈と異なる部分です。
なお、訳をより良きものにするために今後適宜修正を加える場合があります。
2017年10月
市川 哲人
五輪書 地の巻1
兵法の道を二天一流と名づけ、長年鍛錬してきたことを初めて書物に表そうと思い、時は寛永20年10月上旬(=西暦1643年11月下旬)の頃、九州肥後(=熊本県)の地にある岩戸山に登り、天を拝し、観音を礼し、仏前に向かうのは、生国は播磨(=兵庫県南部)の武士である新免武藏守藤原の玄信、年を重ねて60才である。
私は、年少の昔から兵法の道を常に心にとどめていて、13才で初めて(真剣)勝負をした。その相手は新当流有馬喜兵衛という兵法者で、この者に打勝った。16才で但馬(=兵庫県北部)の秋山という屈強な兵法者に打勝った。21才で京に上って天下の兵法者に出会い、数度の勝負を決したが、勝利を逃すことはなかった。その後、諸国各地を巡り、いろいろな流派の兵法者に出会って60数回まで勝負したが一度も勝利を失うことはなかった。それは13才から28、9才までのことである。
私は30才をすぎて過去の勝負を回顧してみたが、最上の兵法の境地に達していたから勝てたというわけではなかった。(勝負に勝てたのは)自然に兵法の道の機用(=はたらき)があって、天の道理を離れなかったためであろうか。あるいは、(単に)他の流派の兵法に足りない所があったせいであろうか。
その後、さらに深遠な道理を得ようと朝に夕に鍛錬を重ね、自然と兵法の道に適うようになったのは、私が50才の頃である。 それ以後は探究すべき道がないまま歳月を送った。
兵法の実利に任せて、(剣術、弓術、槍術、砲術、馬術、棒術、十手術、抜刀術、手裏剣術などの)様々な武芸の道を行っているので、(それらの武芸の)万事において私には師匠は居ない。今この書を作るにあたっても仏法・儒道の古語を借用したり軍記・軍法の古い事柄を引用したりはしない。この(二天)一流の見解やその真の精神を書き表すこと、天道と観世音に照らして、10月10日(=新暦11月21日)の夜、寅の一天(=午前3時半~4時)に筆をとって書き始めるものである。