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世の中やっとクラウドが浸透していく様相ですね。

先日うかがいましたお店では、クラウドがスマートフォン等の携帯端末での閲覧などにも対応などと説明されていました。
最近ストレージ系のものがかなりリーズナブルになっていることがこの事に拍車をかけているのでしょうか、オンライン上で全てが解決できる時代にようやくなってきたのかなと実感します。

ブリーフケースやオフラインのストレージなどでデータを持ち歩かずともWEBにつながっている環境とブラウザ等のアプリケーションを利用する事で、ビジネスワーク等がコンビニ感覚で行え、より流動性の高いステージへとビジネスステージでもようやく変革される時期がきたなとおもってわくわくしていくます。

何事も風通し良くするには「競争」ですから、感じた瞬間から次のステージが描けてなければと襟をただしている自分にふと気付いちゃったり気付かなかったりな日々。


 
とり残された社会といって良いかは解らないし、何がとり残され朽ちて行き、
はたまた創造か再生されるかわからない程、かなり速いスピードで何かが
動き出している様に時代を感じている。

マルチメディアという言葉がもてはやされていたのは一昔。
双方向のメディアとか言われてたのもまたその昔のこと。
今ではソーシャルメディアという言葉がもてはやされているように感じる。

そもそもメディアとは何だったのであろうと考えた時、
むしろそれは実経済とどのように係わり合い、どのようにマネタイズするか
という事になりがちな世界という経路で私はよく目にする。

通常、膨らみかけ、形になり、そしてやがて収益性を帯びる形で実社会に浸透して行くのが常である。

コミュニケーションプラットフォームという要素で言えば、SNSなどが2006年頃にピークとなり、その中からグリーやミクシィなどの様にゲームという動的なアプリケーションを軸に発展を遂げているものがあれば、ニコニコ動画やスティッカムなどのように動的な映像を軸に人と人とが結びつくものがつい最近まで主流のように思えた。 

2009年末から現在までで際立って流動化し加速化し、そう見えるのが
USTREAMのように感じる。
より明確に可視化されやすい情報化が進む中で、より大容量(=約3時間の動画記録)の記録媒体としての要素とコミュニケーション的な要素を同時に兼ね備えた技術が進歩し、TWITTERを軸に現在からすると新たなメディアとして変革しようとしている。

そのソーシャルメディアの5年後を想像したときに、「単なるメディア」
になっているかもしれないが、今現在の若者やそれを使いこなしている
人種にしてみたら明らかに実社会により近く、そこでの交流が実行動を伴い新たな出会いの場となり、交流のきっかけとなっている事を、もうそろそろ
だれもが普通と感じる頃なのかもしれない。

しかし、以前のそれと違うのは、完全なる組織 VS 個人であったが
どこかの組織に所属している個人 VS 個人という流れになってきているのではなかろうか? むしろ個人VS個人 でもないところに、民主制の芽生えとも言えるような人と人とのかかわり方が形成されつつあるように思えてしょうがない。

ラジオ放送がテレビ放送として親を食いつぶす形で組成していった様に
ソーシャルメディアはその様なマスメディアを食いつぶして組成していくのであろうか? はたまたインターネットに於けるソーシャルメディアが、マスメディアの性質を同じにして、単に経済的利益の大きさによって、存在意義や利用者多さから順位が入れ替わるだけなのではないか?

そのように仮定を強めていった際、私が感じるマスメディアの終焉は、アメーバのように流動化しやすく、更に「プロジェクト単位で再組成されやすいコアメディア」として形成され、新たなマスメディアになってき、決して組織力がはびこり難い形で社会とかかわりあっていくのではないかと推量する。
その流動性を加速化させているのもTWITTERがキーの様でもある。

それは古代ローマ時代の民主制の終焉と似た感もまたあり、
問題はそれが、どこかの国か、又は自国かはわからないが、少なくとも実経済を食いつぶす形で、剣の舞のごとくきりかかり、境内で笑いながら人ひとりが背負いきれない程の負担を金銭的に寺銭方式でまきあげていかなければいいな
と思いたい。今、37歳の私は時代が変わる微妙な時期を感じている。

動画で俊敏に、熱き心が、しかも生の声で孫正義ソフトバンクの素晴らしさが心から味わえたユーストとで逢う事が出来ました。


私もSBのミジンコの様な一株主ですが、現在から10年先の未来が感じられる言葉に心底感動いたしました。


今までSBの株と当時のライブドアの株だけは、儲けようとか、儲かるとかそんな事を一切きにせずに、事業をどのようにしてくれるのかを考えて直感的に買えた株でした。


以前ネットに接続するときに、ニフティサーブでもなく
マイクロソフトネットワークというのがあって、ダイヤルアップで
ピーひゃらピーひゃら言いながら、今となってみれば高いプロバイダ料と通話料を払っていたのを覚えています。


あの時からずっと、この先何の業種に未来があるのかを直感的に感じ疑わなかったのもしかりです。


ホームページを開いてそこに広告のオファーをかければどれだけのお金になるのかというのもあまり定まっていなかった頃に、これは広告業でぼろ設けできるなという事も肌で実感もしてました。


しかし私はその時、大量負債を抱えていた事業=稼業の元で働いていた
最中で、再建というキーワードに翻弄し、肉体労働ガンガンで睡眠時間一日3~4時間が続く中、それをきっぱり捨てて違う事業にかける事すらできないでいた自分がありましたし、自分がその新たな事業分野でのチャレンジができなかった事には能力と勉強する意志の弱さから、悔しさばかりを感じた時もありました。


そして2005年の秋頃ショックを受ける身内の死をきっかけに半分うつの様な気分になり、その頃から翌年の春のお彼岸が始まる少し前の2月頃までは途方にくれていましたが、自分をいつも信じてくれた親戚の一人からの無償の愛を感じとる事で、金だけでは決してはかれない何かを感じとり、振り返り悔む必要のない事に気付き、最後まで自分のブンと、社会で自分は何の役にたてれるのだろう、又はなんの役に立てているんだろう?ということばかりをそこから考え始める事が出来ました。


その様な事を噛み締めていた年が続きましたが、遅ればせながらも今となって強い意志を持つ事に至ったのも、情報革命程の大業ではないけれども、成長産業ではない成熟産業ではあるけれども、
文化として根付き、しかも人の心の中に根付いてきた慣習の中にある
事柄で人と人とを結びあう仕事をしていた事に目覚める事ができたからなのかなとも思います。


花と情報革命?これに接点はあるの?と思われる方も多いとは思いますが
花というキーワードは情報技術と同様、人と人とを繋ぐプラットフォームになっているように思えてなりません。


つまり、私がしている仕事とは「花」というキーワードで
ネット掲示板やツイッターなどのツールを使い、あらゆるコンテンツとライフスタイルを提案し創造する仕事なのだと仮定し、その実行に至り現在模索しながらも検証も同時並行で動いている中でも、強く信じているからなのです。


芸術・アートというコンテンツとしてとらえた時には大きなふくらみと、横の繋がりを持てる事もでき、そして多様化する事もできる。
その中から、新たなライフスタイルを生み出す事が出来るとすれば
結果としてそれが人々の喜びや希望にかわり、人々の目指す新たな道筋となり、新たに人と人とが繋がる輪が広がって行く事にもなるのだと感じます。



なんとなく理屈っぽくて分かりにくいですが、
人が生まれるときに、お花で祝い。
人が亡くなる時にも、お花で送り。
人のその体が滅びたとしても
 花卉が飾られ送られている。


 という事が現実として今でもあり、これから10年30年先も
 贈る又は送る形式は変わっても、それ自体は消えないでいるという
 確信が今あるという事なのです。


 その点でいえば、そろばんの玉の数は確実に増えないし違いますが
 志は孫正義ソフトバンクとなんら変わらないのかなと
 わたしも勝手に解釈しています(笑)


 自分の過去を振り返りながら、自分の今までとダブらせながら
 孫氏の肉声からにじみ出た話を目にし耳にし、ぐっと来てしまい
 まぶたが二日酔い状態になってしまいましたが、
 何度も何度も見るたびに、素朴というのは大変大きな力を生み出し、
 素朴であるがゆえに偉大な創業者である孫氏は素晴らしいなぁと
 しみじみ感じたこの3日間でした。


 これからを担う若い世代の方、とくに中学生や高校生に
 ぜひこのVを見てもらい何かを感じとり、自分を縛る前に
 自分の意思で何かが創造できたらいいなと感じます。




@ustream Check out 孫正義LIVE2011(全編)http://ustre.am/:os97

花まつりとは なんなのか?
お酒が飲める日 ではございません!

釈迦=ゴータマ シッダールタの旧暦4月8日に生まれたたという言い伝えで、降誕会・仏生会・浴仏会・龍華会・花会式等の別名もございます。

 仏生会
】ぶっしょうえ
4月8日、インドのルンビニーの花園で、お誕生されたお釈迦しゃかさまを祝う法会で、「降誕会ごうたんえ」とか、「灌仏会かんぶつえ」とも呼びます。
わが国では、推古天皇14年(606)にはじまったといわれています。
 いまでは「花まつり」として、子どもたちを中心に年々盛大な
 慶讃の行事となっています。
花御堂はなみどうという屋根を種々の花で飾ったお堂をつくり、
その中に、お釈迦さまの誕生仏たんじょうぶつをおまつりし、
甘茶あまちゃを灌そそぐ灌仏かんぶつの儀式を行います。
また、白い象に乗った花御堂を子どもたちが引いたり、
お稚児ちごさんが出たりなど、にぎやかにとり行なうところもあります。
  真言宗豊山派より
http://www.buzan.or.jp/buzan/gyouji.html

▼各花祭りの場では、草花などで供えられた花御堂を囲い
 甘酒等がふるまわれるなどしてお祭りをします。

▼ご家庭では、真心込めてお花を飾り
  清らかな心で釈尊(お釈迦様)のお誕生をお祝いできますように。

 

夜桜が何を意味するか。
そもそも桜が何を心に印象付けてくれているのであろうか。

まずバラ科サクラ属である。

100円硬貨の表にも、日本国と書かれたその下には
桜の花の絵が添えられている。

なにより、桜の姿は、枝気につぼみを宿した時には
気付きにくいその存在も、花を咲かせた途端、
「ぱっと」人生のスポットライトを照らされたかのように
その存在感を溢れんばかりに主張する。

花を咲かせたその枝や朴、根までの輪郭までもが
その"花びらひとつひとつ"との相乗効果で、
何かを私にうったえかけてくる。
そこからは、えも言われぬ程の大きな生命力を感じさせ、
しかも、年に一度という贅沢な季節感をも味あわせてもくれる。
そうであるがゆえに、人々の心にも刻まれやすいのであろうと推量する。

また、勢いよく咲いた後に、「ぱっと」散りゆく潔さ、
そこにも、自身の人生観と照らし合わせるかのように
思量するものもあるのではないか。

むしろ、自身もそうありたいという精神面での依存心すら浮かぶほど
その生命力は大きく心に印象づく花なのだと思う。

そして、夜桜。
私のもつ夜桜への想念は、眩しき咲き誇っているであろう花びらが、
夜の暗さと陰影で何かを感じさせてくれる。
根の下から吸いとったであろう養分は何なのであろうか?
生態系から来るものなのか、自然の摂理なのであろうか、
この勢いよく咲く花びらも、太く育った根や幹も何かを犠牲にして
ここまで育ちながらも、誇らしげに勝ち誇ったかのように主張している
かの様に感じとられる時もある。
その時その時の自分の精神性が全面に映し出される点で、
夜桜は不思議な趣を感じとれる。まるで嫉妬心すら感じとれた時には
ふと自分に戻る時すらある。


取り壊され新たに改築された建物の庭にも、昔からあった桜が
夜桜として私の目にとまり、ふとデジカメを手にしてしまった。


夜桜2 中野夜桜 中野