お花と音楽とフリマのコラボイベントを斬る!



 




拙者は今回、世田谷市場で行われた音楽とフラワーデモンストレーションショーが奏でる

 理想の空間を堪能してきたでござるよ!

何がいいって?? 



 それはね 花をたしなむ新たな形の実践だわね! 



 もっと言えば、そこにフリマや生産者さんも参加してのお花の普及を企てた

 

 目的としては最高の演出なわけだよ! 



 みんなしれーーーっとした感じの仲間だけどさ、



 かなりホットなわけだよ。

だからね、エッジがきいてるんだわな!



  う”--ん!! ほんと素敵な空間演出。



 だから お花を楽しみたくなる 最高の演出なんだよねと!



みんなねイキイキしてるんだよ! スタッフも手弁当でさ!



出演していたアーティストの方々も手弁当でさ!



それでもってこれだけの事が出来たら 万々歳だよ! 





この様な空間を、一人で行ってもたくさんの方々と堪能することができる事



に意味があるのだと思う。



大きすぎず、小さすぎず心地よい空間。



音 と 空間 に 花があるのではなく、 



コンサートや会場に 花が飾られていたのでもない。 



『花をいけている空間』に 『生音が奏でられ』 『それを体感できる空間』がある。





これが理想の空間。  ライフスタイルに溶け込みながら、違和感の無い程度の演出 



ゆっくり情報を伝えることのできる仕掛け、  その空間を演出する人々の真剣さと魂。



伝えたい何かが感じ取れるような空間つくり。



今後こういった本物志向しか、人の心に響かない時代がもう来ていることを



懲りずに伝えていきたいと思えた素晴らしいイベントであった。




   















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■ シーン



 観覧していた方々が意外にも、作りこまれた作品やディスプレーよりも

 素材そのものに求心しているシーンが多かったように感じました。



 産地や生産者の情報がタグでついていましたが、なかなか小さい事と

 位置的発布場所の問題で 見難かったのが残念!でした^-^。

 

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 コンシューマーの中でご年配の方ですが、見難いながらもタグを手で寄せ、

 『このお花は栃木足利市の岡田さんって書いてあるわよ』

  実家からすぐ近くなのよ足利市!』という会話をされていました。

 

 これって、情報からご縁が生まれるやもしれない『キッカケ』じゃないの!?

 機会損失ってこうやって起きるんですよね。勿体ないな! なんて思ったりもしました。

 まぁいつもながら感じる事なのですがね。いや、いつも感じるからこそ、

 そういったシーンが目につき、耳にする事に敏感な私の癖だったりもします。





■即売会もされていました。



 花のポット苗を地面におき、一ついくら3つでいくらという感じで。

 生花は桃の花セットなどもあり、スーパーマーケット式のカジュアルな感覚で

 販売方法は威勢よく、よってらっしゃいみてらっしゃい的なのりで威勢よく

 ハッピを着て売る感覚。

最後はバナナのたたき売り的な感じで元気よく気持ちがよかったです。





■展覧会の構成について。



 〇ディスプレー展示ブース 25%

   (内、素材展示85%・情報展示15% )

 〇素材展示 55%

 〇フラワーコンテスト 5%

  〇ワークショップ 10%

 〇販売系 5%

   (目分量ですので実際きいたわけではございませんのでご参考までに)

 計100%



■観覧者・入場者の年齢層



 〇20~30台 1 0%

 〇40~60歳台 30%

 〇60歳台以上 60%

     計100%



 〇業界関係者30%

 〇一般客 70%

    計100%

  (目分量ですので実際きいたわけではございませんのでご参考までに) 








昨年中は様々なシーンで皆様にはお世話になりました。
また本年も本格始動いたします。
新年を迎えまして、本年も変わらぬご愛顧の程
どうぞよろしくお願い申し上げます。


さて本題。

昨年に続き今年こそ、建前だけでは滞る年に。

様々なシーンで個人ではなく複数の人々が関わる会議や、
取り決めや、そもそも決断をしなくてはならない時が誰しも必ずあるもの。

今までならば形式だけで、むしろ建前で繕えば事が先送りでも
すんでしまう事や時勢時期、一種のモナド論に似た予定調和の
発想が大きな体制下では多々あった。

一昨年来より民主的な風が吹きすさぶ中、じわじわと個人の能力と
自己責任の元、国のあり方がじわじわと変化しつつある中
いよいよ"個でものをいう"国民世相も浸透してきたのかなと実感する。

その時勢でもやはり旧態ともいえる組織の姿のまま
現代の時勢に即さねばならない事も多々あるわけで、
新旧の根本的な違いを見つめてみれば、何が大きく違うのか?
あーでもないこうでもないと考えると、結局は
『 意思決定 』のプロセスの差が大きく違うという話に戻っていく。

すなわち、保守的な旧態に対して新態という言い方が正しいかという
議論は別として、反義語的に新態との差を鑑みるに、
旧態は責任の所在を複数の人間で転嫁し分散しやすく、
悪く言えば事なかれ的に賄えるのが旧態なのに対し、
新態はその真逆になっているのではないかという発想と実感である。

つまり、分散がないため行動を起こしたものが起こしただけダイレクトに
戻ってきやすい反面、誤ったことや時勢に即さないことをしていれば
即座に重い障壁となり前途がゆがんでいく。
そういう意味で言えば、責任が転嫁されやすい旧態はやはり
リスクというよりハザードに近しい要素を多分に含んでいるに違いない。

何れにせよ民主化が起こりやすい時代は、その国そのものや
周辺国に至っても、危機感や多民族化や教育の劣化等の様々な要因から
もたらされる『道徳観』『理念』『思想感』が多様化し、まとまりきれなくなった
状態から起こるとすれば、やはり行き着くところは『誰が決め』
『誰が決めたことの利を得て、責を負うか』という損得がものをいう社会
に尽きてくる。

そうであるならば、個々が知恵を絞り切り、その危機感のもと必死になる
のは必定な事であるといえる。ゆえに発する意思がある者は
『歯に衣着せている』場合ではないという事。
それと共に、結果として正しかった事や誤りであったにせよ
その時その時の瞬間に『本音』で語る必然が生まれるにちがいない。

つまり、『本音の価値のみが活きる時代』であるといえる。

剣道で言えば、鍔迫り合いをしているのに一瞬の手抜きもできず
手加減などしていられないあの状況に近しいものがあり、
華道で言えば一手一瞬でとめたい場所に花がそえられる瞬間、
茶道で言えば極限まで切り詰められた空間でのやり取りに近しい
『行動心理』がこの時勢にあっているに違いない。

一瞬一瞬の積み重ねが流れになるのだが、その一瞬を疎かにできない
その様な『張詰めたやり取り』が、『今』必要だと再確認し、
後ろを振り返る間もない『飛躍の年』を有効に、自らの意思を持って
進み『本音の価値』を堪能されたい。

ますます、ソーシャルをキーワードに発する『本音の価値』は
『シェアする価値』と重なり増大する年になりそうでワクワク感が
ただよっている。

 昨年末や新年早々様々な場所で談議をするに行き着くところ
 これであると再確認し、来春振り返るに丁度良い時期と判断し
 先取りして記しておくことにしました。


【 シェア 】から生み出す発想力。



昔アメリカにホームステイした時に、その家族の親戚の方と部屋をシェアして住んでいた時がある。
彼がいつも言っていた言葉は『何かあったらシェアしようね』と。
部屋そのものをシェアしているわけなのだから結局分かち合うことがたくさんあるんだなとその時には何のことやらわからなかったが、そうだね宜しくねと軽く答えてしまった。
日が経つにつれ、実体験として次第にシェアの意味が認識できるようになっていく。
同じ空気を吸い、同じ空間を少なくとも寝ているときは共有するということ。
彼の煩いいびきの音まで共有することになるのだが、結果として慣れていくものだ。
もっと言えば、慣れるというよりむしろ受け入れたのかもしれない。
いびき自体はマイナスなイメージであるが、プラスなこともたくさんある。

思想や考えもしかりである、逃げられないどうしようもない枠組みの中で、共に何かを共有しなければならないとすれば、より良いものに合わせたほうが効率も良いわけであるし、そうせざるを得ない環境になるということかもしれない。
しかし一番大切な事があるとすれば、その共有しなければならない枠組みを自身の意思としてどこにするか?ということ。

部屋のみに限らず、家なのか町なのか市なのかはたまた国家なのか?
もっと大きな枠で言えば地球規模なのか??

しかし、国家という枠組みで何かの良い価値を共有するという事は、争いも絶えない規模なのかもしれないからこそ、人類は宇宙を目指すのではないか?という考え方もあるのではないか。 

つまりシェアするというのは誰かにとって有益であり、ある一定の枠組みの中で成り立つ行為であるが、昨今の社会変化からソーシャルというキーワードとともに、twitterをはじめとする情報のシェアという流れも起きている。

今後ソーシャルネットワークが浸透するにつれ、情報や趣味嗜好による価値のシェアが急激に起き、生活の隅々までシェアしなくてはならないという、私有財産制を真っ向否定する社会ができてくるかもしれない。

そもそも人類が地球をシェアしている発想のもとに平和を考えなくてはならないように、『 シェア 』するというキーワードから
来年以降地球規模の議論が起こり、『 シェア 』する発想から、
日本も新たなステージに移行していくのかもしれない。


今食べている一個のリンゴがあったとして、
そのリンゴを私が誰もに見えるように食べていたとする。

その時にお腹がすいた誰かがやってきて、食べたそうに
必死にうったえかけている人が、一人一人寄ってくるとする。

その時に誰に分け与え、どこまで耐えれるのであろうか。

食べても食べても減りにくいリンゴがあったとしたら、
それは一個のリンゴではなく一つの『 情報 』かもしれない。





歳の瀬も近くなり、自分自身の来年のキーワードは

『 シェア 』 から何かを考える年にしよう! と決断しました。





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孫氏と田原氏の対談USTに参加して

【パラダイムシフトの時代】
農耕社会にマネージメントしている武士社会から工業化社会にシフトした。工業社会から情報化社会の時代へのパラダイムシフト時代が
今現在起きている。

明治時代から尊皇攘夷によって変革した社会。
昭和時代から電子立国化し繁栄をした日本。
平成時代から情報革命によって変化しているアメリカ。

差異があるとすれば、本質は思想変化ではなくパラダイムのシフトであり、Civil Warがその都度起きて変化している事に気づく人が少なすぎる。

Civil Warとは、国外の外圧からくる 国内の格差と軋轢により変化せざるをえなくして蜂起する。いつも誰かが志願して起こるだけのものではないであろうが、少なくともその時代その時代で要になる人がいたはずで、
先に気付いたものが財を残さずとも名を残すのかもしれない。

今の日本という国は 
学ぶ→マネぶ ことにより繁栄した小国日本。

それはマネした方がより速く結果を出す事ができたという事。
しかし未だに「マネぶ」を続けて行かねばならない程情けない文化から抜け出れていないでいる。
即ち 明治以降 武士が居なくなっただけではなく 武士の心までもが無くなっているという現状が諸悪の根源ではなかろうか。

日本の経営者は「腹をくくって先に進む武士の心」を持たない者がのうのうと経営者になれるいい国でもある。
つまり国家のまつりごとの長までもが病気を理由に保身に走るせこい国に成り下がっている事もその最たる証。故に国力が上がるわけがない。


先に進み何かをなす時に、競争の原理を履き違えている事があるとすれば
先に進む者の足を引っ張り、最下位の者に分け与える形で平均をとり総力としようとすること。
これではその競争力の本質はいずれ他の枠組みに抜かれていくに違いない。
すなわち、先に抜きんでるものは伸び伸びとさきに行かせ、できない者はできる者に限りなく近づこうとするようにアシストするということ。

そういうり経営なり国家が作れたとしたら、すなわち教育があったとしたら
国というものをデザインするのに一番望ましいことであるという発想が今もまた語られている。

今一度 スターウォーズ という映画からなんらかの思想を感じたネイティブな世代が、多くを語り合い立ち上がる時が来ている。