最近、以前何かでふれたこんなたとえ話が、ふと心をよぎるのです。
看板もないけれど、おいしそうな匂いが漂ってくるレストラン。
入ってみると、ウェイターが席に案内してくれますが、メニューが見当たりません。
それどころか、お水さえ出してもらえません。
ずっと待っていても注文も取りにこず、お腹は減るばかり。
でも、周りの客には次々とおいしそうな料理が運ばれてきます。
ずっと待っていましたが、とうとう料理は出てこずに閉店時間に。
店を出るときに「何で私にはメニューも何も出してくれなかったの?」と聞いたら、
「こちらはオーダーしていただければどんなお料理も出します。
でも、決まったメニューはありません。
オーダーされないものは一切お出しできないルールなのです。」との答え。
「今度来た時にはちゃんとオーダーしよう。」と思ったのを見透かれたかのように
「お客さま。今度…は残念ながらございません。こちらは1回しか入店できないのです。」と
声が聞こえたと同時に、さっきまであったお店が影も形もなく消えていました。
…ちょっと、記憶が怪しいけど、こんな感じの話で、
「人生もこんな感じの仕組みだよ」みたいに最後に付け足されていたように覚えています。
・ただ待っているだけでは、ほしいものは手に入らない
・オーダーする(声に出す、願う)ことさえすれば、手に入る
・おすすめなどのメニューはないから、自分のほしいものは自分で考えるしかない
・見たことがないものでも、具体的にオーダーすれば実現する
というあたりを、話を聞いた時には思ったけれど、今はもう1つ思うことがあります。
それは、
・分からないことは知っていそうな人に聞いてみればよい
ということ。
さっきの話なら、水やメニューが出てこない時点で、ウェイターに声をかければ
お店のシステムがわかって、おいしい料理を堪能できたはずなのに
それをしなかったがために、空腹のまま不満だけを募らせてしまったのですから。
・自分がほしいものを明確にする
・それを手に入れるために必要な行動を起こす
・分からなければ知っていそうな人やすでに手にしている人にきいてみる
願いを実現するというのは、こんなシンプルなことなのでは?と思うのです。
そのシンプルなことがなかなか出来ないのが、もどかしいところ。
・ほしいものが分からない
・必要な行動がわからない
・きける相手がいない
・きけそうな相手がいても、きく勇気がない
あたりが、阻害要因としては考えられますけどね。
ほしいものがわからない…は、本人にしか正解が分からない代わりに
本人がそう言い切ればそれが正解にもなるわけで。
ほしいと意思表示する勇気、思っている以上に大切なもののような気がしてきています。