話しが前後しとんのやけど、鶴橋で活きダコの踊り食い食べる前に行ったんが太閤下水。


本能寺の変のあと柴田勝家を倒し、織田信長の後継者と成った豊臣秀吉は直ちに大阪の町作りに着手。


ここまでは誰でも知っとうやんか。
で、440年前の秀吉が町作りした時の下水が現在も活躍しとう言うから、以前から気になっとったん。
検索したら





こんな画像出てくるし、440年前の建造にしたらクオリティー高過ぎやろ❗️
目地もちゃんと埋めてあるように見えるやん。

これは確かめなアカンやん。


そやけどなぁ、タダコで見学させてもらうのにすてれんきょ独りやとなんか申し訳無いやん。

そやけど、どんどん体力のうなっていくし、動けるうちに、見えるうちに行っておかんと未練残したままで死んだら成仏でけへんやん。





そんな訳で、12月26日10時に予約して現地集合。

覗き窓から見る分には何時でも誰でも覗ける様に成っとうけど、冬場は下水の方が温いから結露して全然見えへん😩






下水が流れとう上には建物がのうて、ストーンと一直線に開いとって、下流は東横堀川に流れ込んどった。
今は暗渠に成って路地ん成っとうけど、当初は素掘りやったらしい。


↑上のネットに出てた画像とは当時はちゃうかったんや。

ほんでも石組みは目地も埋めてる様に見えたんで、江戸後期に石組みしたて聞いても、不思議に思て聞いてみたん。
「目地はどうしたんですか?」
「石を組み上げただけです。」
「それやと下水が地中に染み込みませんか?」
「そうなんです、明治に成ってペスト菌が井戸に入り込んで流行したんで、下水底部分にコンクリートを厚く敷いて染み込まない様にしてあります。」


て、いうような説明を受けて、






直に見れる地下に降りるん。








直に見ると確かに石組みには目地が埋められて無い。





なるほど、こういう構造なんやな。



確かに豊臣秀吉が築いた下水ていう証拠は無いらしいけど、古くから言い伝わっとう事らしい。


江戸には玉川上水残って無いんやろか?

今度は玉川上水の見学したいな。


因みに、時代劇見たら長屋の真ん中で井戸端会議しとうけど、あれは井戸ちゃうから。
玉川の水を木で樋を組んで市中に水を供給する上水道やから。