下弦の月 | ふんわりシフォン

下弦の月

「……下弦の月は寝待ち月とも言って深夜に東の空に現れます」



カツカツと黒板に板書されていく文字は、男の人なのに性別を感じさせない、しっかりした丁寧な筆跡だった。

あちこちから板書をノートに写す筆記用具の音がする。そのなかアタシは頬杖をついて回りを見回していた。いくら受験生だからって、こんな狭い部屋に閉じ込められて、勉強をさせられてるなんてたまんない。

ため息をつくと隣の席から美羽がつついてきた。



「ねー今度のセンセイ、イケメンじゃない?」

「仮でしょ?ただの代用要員じゃない。しかも理科とかってありえない」



点数がヤバイ数学と英語だけでいっぱいいっぱいなのに、社会や理科までやってられない。
吐き捨てるように言って視線を戻したら、塾のセンセイと目があった。



「確かに、普段生活していて理科や社会の知識を生かすことは少ないかもしれません。ただ何も知らないより、あなた達の生活を豊かにしてくれることは確かです。それに暗記科目は得点源ですから疎かにしないように」



さらりと受験対策を口にした唇がにこりとあがる。確かにイケメンと言えなくもない。理数系の知的な容姿で、少し長めの髪に眼鏡をかけている。出会う場所が塾とかでなかったら、アタシも『カッコイイー』とか『イケメンー』だって騒いでいたはずだ。

ガタリと椅子が鳴って美羽が声を張り上げる。



「センセーいくつー?彼女はー?」

「それは簡単には教えられません」



あちこちから失笑がおきる。笑いを消さずにセンセイは黒板に向き直った。カツカツとチョークが図形を刻む。



「この問題を解いたら教えてあげましょう。この月は上弦の月と下弦の月のどちらでしょう」



黒板にはお椀のような三日月が、丸みを上にして横たわっていた。



「センセ、ぜったいね。ぜーったい教えて。えーっとね…弦て弓の糸でしょう…だから…」



考えはじめた美羽の横で、アタシも声をあげる。

「待って。この問題はフェアじゃないよ」



ぴくりとセンセイの眉が上がる。


「なぜ、フェアでないと言い切れるのですか」

「だってどっちの空か言ってない」



ふっとセンセイの笑い顔が変化した。興味深く探るような視線を感じる。

「そうです。これは引っ掛かけ問題です」



言ってから、地平線上のふたつの軌道に三日月を書いていく。

Eと書かれた側から昇る三日月には、お椀を伏せたものと、汁物をよそう形のふたつがあり、Sで引き絞る弓のように立ち上がり、昇ってきた時と逆の向きでWへと沈んでいく。



「先程説明したように、月には満ち欠けがありますが、この図のように同じ形で空にある時があります」

最初に問題として描いたものと同じ、お椀を伏せた形のものを色チョークで囲む。違う軌道の、東と西にそれぞれ印が付けられた。



「では、どちらが下弦の月でしょう」


「えーっと今度は二択でしょう…Eの上のが弦が下だから、これっ!」



美羽の答えに、センセイはにこりと笑った。

「残念ながら違います。正解は西にあるものが下弦の月です。弦というのは月を弓に見立てたもので、弓に張る糸のことではありません。上弦、下弦というのは満月を境にして、上旬下旬ということなのです」


「なんかロマンチックじゃない……」

鼻の頭にしわを寄せた美羽がぼやく。



「上弦の月、下弦の月は沈む前にだけそう見えるのです。知らなければ間違えてしまうことです。香久山さんはよくわかりましたね」


ふいに名前を呼ばれて、はっとした。どこに名前があるのか…なんて。考えるまでもなかった。アタシは名前入りの学校ジャージだったから。
まわりの視線が集まっているようで、暑くてうつむいた。


「気になって、調べてみただけです…」


「あーあっ残念。せっかくひながヒントをくれたのに~」

「また機会がありますよ、多分」






それから、アタシも少しだけ塾の理科が苦痛ではなくなった。

塾が終わると、センセイはアタシ達が出て行くのを玄関で見送り、空を見上げる。

ほわっと白い息がたなびき、闇に滲んで消えていく。


同じ形のものであっても違うもの、同じに見えても違うものは、たくさんあるのだろう。

知らなければ下弦の月を見分けることはできない。


アタシにとっての下弦の月はどこにあるのだろう。

旅してきた月がほんの一瞬だけ見せる姿。その一瞬を捕まえたい。



アタシの下弦の月はどこかの空で今日も、きっと瞬いている。