FULL MOON 外伝*死海のほとり | ふんわりシフォン

FULL MOON 外伝*死海のほとり

小型のセスナが着陸体制に入ると急角度をつけて機体が傾ぐ。シートベルトの着用ランプはついたまま、グラスワインがテーブルを滑っていきそうになり、危ういところで女の細い指に止められる。

ぱしゃりとグラスのなかでワインが揺れる。
幻のような虹がかかり、ワイングラスからミネラルウォーターへと虹の輝きが移動する。

ちらと視線を送り女はグラスを飲み干し、腕をあげた。すぐに客室乗務員が現れ、グラスは片付けられた。




セスナが着陸してから、迎えの車に移動する際に、女が手にしたのはミネラルウォーターのボトルだけだった。

移動に際してパンツスーツをまとっているものの、華やかな雰囲気はサングラス程度で隠せるものでなく、遠くからでも人目につく。姿を認めてから、すれ違うまで視線を逸らせる者はいない。

豊かな金髪が波打ち、かすかな香りを残して行き過ぎるまで…背中にさえ視線が向いてしまう。

建物の角で見えなくなり、やっと我にかえる。その存在感は生命力にあふれた輝きで人を魅了するのだ。




彼女はアリア。
天使の歌声にあらわされる美貌を持ちながら、マスターであった。水を統べる彼女は満月の今日、死海にやって来たのだった。



死海のほとりのホテルにチェックインすると、手早く水着に上着を羽織り、ペットボトルひとつ持って死海に赴く。

後ろから執事がバスタオルやら小物を持って後を追う。アリアは裕福な生まれのため、今まで財布というものを持ったことがない。
買いたい物なら家にデパートの者が引っ切りなしに見せにやってくる。

たまに店に入ったとしても、支払いは執事が行う。顔パスのきく人間だった。

物については満たされた人生だった。あることを除いては。そのあることが今のアリアに繋がっていた。




死海に夕闇が訪れる。光と闇の均衡が破れ闇へと傾いていく。薄い雲はピンクに染まり、藍色を増す闇が訪れる。アリアは遮る物のない空が好きだった。どこまでも続く空と海。地盤の低い死海に流れ込む川はあるけれど、流れ出す川はない。塩分の強い死海には一部でしか生き物は棲息できなかった。

ペットボトルを地面に置くと執事がその場所に座り心地のいい椅子やテーブル、飲み物をセッティングしていく。
まとっていた上着を渡すと受けとりながら、うやうやしく頭を下げる。

「お気をつけて。お嬢さま」


ぬるく温まった海水を感じながらぽっかりと水に浮く。この場所でなら体の負担が少ないことをアリアは知っていた。

空には星が瞬き始めた。もうすぐ月も登るだろう。今宵は満月だ。




ゴボン




虹色の鱗がきらめき、飛沫がシャワーのように降り注ぐ。水を打つ尾が消え、深く潜る気配を感じる。ふっと存在の消失を感じる。



そして、ゆるやかに現れる。

水面に浮かび上がる白い人影に抜き手をきって泳ぎ寄る。
待っていた、ずっと。会いたくてたまらないその人影にたどり着くと、アリアは寄り添って顔を覗きこんだ。

「やぁ、アリア」
「久しぶりね」

頭を抱えてキスをする。男はなされるがまま、動かない。いや本当は動きたくても動けないのだ。

頚椎の4番を損傷。それは男の四肢が動かなくなることを意味していた。自分の意思で動くのは首から上でしかない。食事も排泄もままならない。

生きながら死に絶えたようだった。食事をとり、下剤で排泄を促す。動かない指で頭を掻きむしりたい衝動。死ぬとしたら、舌を噛み切るしか方法はなかった。
その度に見つかった。その度に引き止めるのは、憂いを写すアリアの瞳だった。
あたしを残して死なないで。

その言葉だけで今まで生きてきた。四肢の自由はなくしても、心は自由でいられたのはアリアがいたからだった。

縋り付くようにしてキスを繰り返す。舌をからめる深いキスだった。見つめあい、額や頬やまぶたにもキスがおりてくる。動かない腕をとり、頬に触れさせてくれる。僅かに動く親指が、アリアの唇をなぞる。



抱きしめられたならいいのに。
月の光の下では、こんなにも無防備でしかない。

死ぬまでそばにいるよ。

君を死なせたりしない。全力で守るけど、こんな無防備な姿をさらす満月は少し辛くて、触れることのできる君が愛おしい。

親指を甘く噛む。抱きしめたい欲望が胸を焼く。重なるように抱き合いながら月を見ていた。



ぽっかりと丸い月を