吉行淳之介氏の「白い神経毬」という短編は、周りを山で囲まれたK市(京都)が舞台です。

したがいまして、海は見えないはずですのに、病院の屋上から、なぜか、小さな青黒い海を、主人公が見る場面があります。

「白い神経毬」は、著者自身が校正した講談社版全集、一次(全8巻)、2次(全17巻別巻3巻)、さらに、死後の3次新潮社版全集(全15巻)と、すべての全集に収録されております。

また、吉行氏の旧制静高時代の仏蘭西語教師、恩師岡田弘氏をモデルとした男性も同作に登場し、主人公が海を見たくなるきっかけとなった、ちょっと洒落たお見舞いの品を病室に持参します。


それはまあともかく、しかし、山に囲まれた、盆地の町の病院の屋上から、海が見えることが、矛盾しながらも、やわらかに、何となく、成立してしまっているところが、甚だ面白く、吉行文学の秘密を垣間見せてくれるようです。

玲瓏な吉行氏のこと、とりわけ昭和58年から刊行された2次全集の校正は、綿密になさったようですから、あ、と気づきつつ、いたずら心で微苦笑、そのままにされたのかもしれないとさえ、考えてしまいます。しかし、まあ、おそらく見過ごしてしまわれたのでしょうし、それで良かったとも、おもわれます。なぜなら、そこから海は絶対に見えなくとも、たしかに、そこに、海は、必要だったのですし(絶対に)、この錯誤が、吉行文学における、海のおもみ、ありがたみを、かえって、淡いけれど深い、綺麗な透かし絵のように、見せてくれているからです。

あちらでも、吉行氏は、少しくふざけて、京都市内から海がねえ、ふふふ、これは西田さん(哲学者西田幾多郎)じゃないけど、「絶対矛盾的自己同一」だね、などと、冗談を言って、笑っておられるやもしれませんですね。(吉行さんは、開高健さんとの対談『美酒について』のなかでも、絶対矛盾的自己同一のジョークを、飛ばしておられましたですね。そのときは、絶対矛盾自己同一と仰って、開高さんに、少しく訂正を受けていらっしゃいましたけれど(笑)吉行ファンの方々は、覚えておられるのではないでしょうか。余談となりますが、三島由紀夫氏もまた、澁澤龍彦氏宛の葉書にて、「絶対矛盾的自己同一とはこのことかな?」(昭和41年7月13日)などと、悪戯っぽく書いていらっしゃる箇所がございましたね。いかにも、哲学によく触れていた、旧制高校世代という感じがいたします。)

しかし、ひょっとしたら、京都市内には、一つだけ、屋上から海の見える建物があるのかもしれません。吉行さんは、偶然見付けていらっしゃったのかしら。私も京都には若い頃、数年住んだのですが、そうだ、今度また探しに行くのも、悪くはありませんね。


吉行文学の男たちは、海あるいは夕暮れを見ると、子どものように、歓んだり、安堵したり、恍惚となったり、茫然としたりいたしますね。

「寝台の舟」の「私」、『闇のなかの祝祭』の沼田沼一郎、『砂の上の植物群』の伊木一郎、『夕暮まで』の佐々、もちろん、「白い神経毬」の手術後の主人公も、「海が見たくなった」のでした。

疲弊して、枯渇した心が、クレーの抽象画のような海を求めている姿は、孤独であって、きわめて切実、そこに、不思議な可愛らしさ、さえも感じてしまいます。

海をみつめることは同時に、吉行世界にだけ存在する、小さな、青黒い海から、疲れて猫背になっている男たちもまた、優しみをもって、みつめられることでもありましょう。

海と向き合う彼らには、いろいろあるけど、うまくいかないなら、いかないなりに、まあ粘って生きていこうじゃないか、という趣きもあって、その姿に慰められ、不思議に、やんわり鼓舞された方々も、多いのではないでしょうか。その辺りの機微を、丸谷才一氏や、須賀敦子氏、あるいは、色川武大氏のエッセイは、巧みに掬い上げていらっしゃいますね。

新潮社版の全集では、就中、吉村昭氏、日野啓三氏、荒川洋治氏の解説が、わたくしは好きです。

また、旧制静岡高校のご学友、鈴木重生氏の『わが友吉行淳之介』も、暖かみのある筆致のそこかしこの襞に、ふと見え隠れする正鵠を射る言葉、読みながら、甚だ感銘を受けました。

須賀氏に関しましては、勤務されていた上智大学の教室での、吉行氏の「樹々は緑か」(全集未収録、『砂の上の植物群』の原型のような短編)をテキストにした、文学の授業の描写が、とても愉しいエッセイ「古いハスの種」がございました(『須賀敦子全集』第3巻に収められております)。そのなかで、須賀氏は、吉行淳之介の文学における、夕暮れどきの登場人物の逡巡、心の揺れに、新しい、宗教の一つのかたちを、見い出しておられ、須賀氏独自の炯眼に、ああ、いいなあと感じ入りました。

余談ですが、吉行さん、小学校低学年の頃、カンガルーとボクシングをなさったのですねえ。

甚だ、面白いなあ。


1994年7月28日、世田谷区上野毛の吉行さんのご自宅でのご出棺をお見送りした後、夏の日盛りの坂道を上って、辿り着いた、東急上野毛駅にて、不思議な光景を見ました。

プラットホームにて、俯いたまま、地面を凝視し、幾度も幾度も、同じ場所を往復する男性がいらっしゃいまして、まるで吉行さんの短編「暗い道」(『鞄の中身』所収)で「海は、まだ、遠いですか」などと、不意に尋ねてきた、あの少しく面妖な男性のようでもあり、また、これから荼毘に付される吉行さんを、そのような行為で哀悼する、吉行さんを思慕する方のようでもあり、わたくしには、何かしら、しいんと感じるものがありました。

上野毛公園から聴こえてきた、蝉の烈しく鳴く聲が、何とも凄まじかった夏、あの「悪い夏」、あれから、30年となりますね。


拙文をこ清覧いただきまして、本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。

皆様におかれましてはお身体くれぐれもご自愛くださいませ。それでは失礼いたします。


『クレーの贈りもの』(平凡社)







鈴木重生氏『わが友吉行淳之介』(未知谷)
鈴木氏は、吉行氏が洒落た都会的なダンディと、巷間呼ばれていることに疑義を呈しておられます。
山口瞳氏も、「新聞、週刊誌は、どれもこれもが粋な人、ダンディ、シャイ、お洒落な人と書く。そのたびに冗談じゃないと腹を立て血圧が上り発熱する。馬鹿を言っちゃいけない」と、甚だ憤慨なさって、「吉行さんは飾りっ気がなくて男らしく剛毅木訥の人である。本質がそれだ。」(『江分利満氏の優雅なサヨナラ』新潮社)と書いておられますのも、心に響きます。

岡山生まれの吉行氏は、同郷岡山の、詩人泣菫先生薄田淳介氏、百鬼園先生内田栄造氏、あるいは、木山捷平氏、正宗白鳥氏、柴田錬三郎氏などによく似た、繊細頑固偏屈、岡山文士の血脈に繋がる方とも申せましょうか(私の亡父も、岡山なものですから、穏やかで、頑固偏屈、少しく皮肉屋さんという、微妙な按配が、なんとなく伝わって参ります笑)
淳之介という名前を命名したのは、祖父の、陽之助命名を一蹴したエイスケ氏であるそうですが、エイスケの中学の先輩でもある詩人、随筆家、泣菫薄田淳介をどこまで意識なさっていたのかなど、興味は尽きないところでございますね。


薄田泣菫『茶話』(冨山房百科文庫)


薄田泣菫(岡山県倉敷市連島町出身)
『連嶋町史』336〜337ページ



「歳を取ると、自分は宇野浩二のようになるかもしれない」とは、吉行氏が、河野多恵子氏に語った言葉とのことですが、これも、とても感じのある台詞で、なるほどなるほど。でございますね。





須賀敦子氏は、エッセイ「古いハスの種」にて、現代の宗教を論じるなかで、ユニークで出色の実感的吉行淳之介論を、あの見事な文体を駆使して展開なさいました。




村松氏は、現代詩の雑誌「ユリイカ」での対談で、吉行作品の中の「厄介」という言葉に、鋭く着眼して、独自の吉行論を語っていらっしゃいます。
そういえば、「厄介」な状況にいる男たちの前に、海は不意に、あらわれましたね。
また、慧眼の村松氏は、『やわらかな約束』の中で、吉行氏が三島由紀夫氏を強く意識していたことを、指摘されました。
三島由紀夫氏と吉行エイスケ氏と椿實氏とを、文士吉行さんは、それはそれは複雑な按配で、常に意識なさっていたのではないでしょうか。
だからこそ、吉行さんは、三島由紀夫さんには「スーパースター」(『鞄の中身』所収)で、吉行エイスケさんには『砂の上の植物群』「樹々は緑か」「尿器のエスキス」で、椿實さんには『私の文学放浪』『暗室』でと、それぞれ、「卒業論文」「卒業レポート」を、律儀に、提出なさったのかな。などと、愚考したりいたします。








吉行氏が医師(精神科医)になりたい心を抱いていらしたことが、この二冊(『人工水晶体』『淳之介の背中』)で明かされておりますのも、甚だ興味深いところです。



島村喜久治「しかしね、あなたの作品を拝見すると、もしあなたが医者になってたとすれば、たぶん優秀な医者になってたね。」
吉行淳之介「ぼくがですか、ウーン。」 
島村「精神科あたりの医者になっていたらね。」
吉行「じつは精神科の医者になりたいと思ったんです。戦争中は、文科から医大を受けられましたからね。そうしたら旧制高校の指導教官の先生が、お前が精神病のことをやったら、自分が気が狂うからやめろって言われましてね(笑)。そんなもんかな、と思ってるうちに終戦になりましてね。」
島村「なかなか観察がこまかいから、医者に向いていますよ。」
『人工水晶体』(講談社)177〜178ページ
「対談 淳之介を殺さないで」島村喜久治(医師)


主人は、すでに受賞(芥川賞)のことを看護婦さんから聞いておりました。私達は、薄暗い病室で手を握り、静かに喜びをわかち合いました。
「もの書きが駄目なら医者になろうと思ったこともあった」
そのとき、ポツンと言いました。
吉行文枝『淳之介の背中』(港の人)101ページ


吉行さんの旧制静高の畏友久保氏と佐賀氏が、長崎医科大学予科に転じたため、原爆によって亡くなられていることは、吉行さんの文学を愛しておられる方々は、よくご存知のこととおもいます。





吉行理恵氏

妹の吉行理恵氏の「靖国通り」は、兄淳之介への追悼と、敬慕のおもいに充ちた、比類なき佳品でございますね。


自宅に戻ろうとして、建物の地下から入ると、細い通路の向こうにエレベーターがある。エレベーターの扉が開いて、中から黒い大きな蝶がすっと現われた。
一日も休まず神社に通っていたが、結局その日が最後になった。(理恵さんは、兄淳之介さんの病気平癒を祈願して通っていました。)
兄はすべてのものから解放されて、好きだった市ヶ谷に戻ってきているのだろうか。兄が傍にいるような気がしている。
(吉行理恵『靖国通り』)

吉行さんが東京帝国大学生で、、長崎に原爆が投下された頃、蝶の詩を書いていらっしゃることも、合わせ鏡のように。

才能溢れる吉行一家のなかで、詩的天分は、淳之介氏でもエイスケ氏でもなく、理恵氏が一番だったと感じます。
理恵氏の「靖国通り」、珠玉だと存じます。


『砂の上の植物群』は、父エイスケからの卒業論文だったという意味は、幾度反芻いたしましても、何かしら、味わい深いものがございますね。
エイスケの文体を反面教師として、梶井基次郎や川端康成、内田百鬼園先生、梅崎春生らの文体の衣鉢を継ぐ吉行氏ですが、島尾敏雄氏、安岡章太郎氏らが示唆してくださっておりますように、根底では水脈を同じゅうするかの吉行エイスケ・淳之介文学の秘めたる謎と魅力の源泉へと、卒業論文という、ひとつの言葉に誘われ、私たちも、やわらかに、曳航されていくかのようでございますね。


パウル・クレー「砂の上の植物群」


パウル・クレーとの出逢いは、鮮烈であり、芸術家吉行淳之介氏にとりまして、萩原朔太郎、梶井基次郎、トーマス・マンらと並び、まさに僥倖であったというべきでしょう。





卒業論文と申しますと、吉行氏は、ロレンス・スターン『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』を、東京大学英文科の卒業論文のテーマとして、準備なさっていたのでしたね。
(退学なさったため、未提出であることは、皆様ご承知のとおりです。吉行さんの後年の川端康成論、永井荷風論などに鑑みますに、完成しておりましたら、まことに手堅く、鋭い、ご論考になっていただろうにと、少しく惜しまれもいたします。)