颯颯と吹き抜けて、決して一つの所にとどまらず、樹々の葉を揺らしながら通り過ぎていく風。

爽やかで、潔く、ときに、野分のように荒ぶるけれど、かそけき優しさも併せ持ち、春風駘蕩でもある風が、わたくしはとても好きです。

遠藤周作さんのご親友で、カトリック司祭の井上洋治先生の「風の家」、あるいは、ドビュッシーの「西風の見たもの」や、種田山頭火氏の「けふもいちにち風をあるいてきた」、さらには、森田必勝氏の「今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは」や、四谷シモン氏の「五月の澁澤さんに」における「このあいだの緩やかな寂しい風は、何か人の気配のようなものを感じ、僕は思わず、その横切っていく風に、澁澤さんとよんでみたのです」など、その様々な風のすがたに、わたくしは心惹かれます。

そういえば、芦屋川にある神谷美恵子先生の仏蘭西語塾「名無しの会」に通っていらした、マルグリット・ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』の名訳で夙に知られる詩人多田智満子さんにも、「風」という、それこそ風のように、爽やかな短詩もございましたね。

風はまた、息吹や霊に通じるそうでございますので、霊から連想いたしまして、少しばかりオカルトの話をしてみます。

オカルトとは、「隠す」という意味のラテン語の動詞オクレレの過去分詞「隠された」に由来すると、亡くなられた上智大学の渡部昇一教授が、「戦後啓蒙のおわり」なる卓抜な三島由紀夫論の中で、述べておられます。明るい場所から「隠された」もの、という感じでございましょうか。

ああ、これがオカルト現象とか言われているものかなあという体験が、甚だ鈍感なわたくしにも、幾度かありました。そのような現象にも、私は、すっと心をひらいておきたいなと思います。

例えば、作家三島由紀夫氏や映画監督北野武氏は、そのようなご体験を幾度もなさったようですね。

三島由紀夫氏が、昭和45年1月の馬込の三島邸新年会にて、226事件の首謀者の一人であられた陸軍一等主計磯部浅一氏の霊に憑依されていると、美輪明宏氏(当時、丸山明宏氏)の指摘を受けたことなど、その有名な例となりましょうか(平岡梓『倅・三島由紀夫』文春文庫、村松剛『三島由紀夫の世界』新潮文庫、他出典多数)。そのとき、顔面蒼白になられたという三島由紀夫氏ですが、もし、その折、熊本敬神党の加屋霽堅氏の霊が憑いているとの指摘を受けましたならば、三島由紀夫氏は、かえって喜悦の面持ちであられたやもしれないなどとも愚考いたします。(多くの方が『奔馬』の装幀に使われた加屋霽堅氏の筆の運びにしばし見惚れたのではないでしょうか)

そういえば、小林秀雄氏も、ベルクソン論『感想』(『小林秀雄全集』新潮社)にて、亡くなられたお母様をめぐる、不思議な蛍のエピソードを、冒頭あたり、静かに述べておられましたのも、心にのこりました。

わたくし自身も、祖母に関して、不思議な体験をしたことがございましたが、それ以来、能における、死者のかたりを真摯に傾聴するワキの、そのプレゼンスの重みを、しみじみ、感じたりしております。

生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら、同じなのかもしれないとは、宮本輝氏の名作『錦繍』の中の、忘れがたい言葉ですが、亡くなった方々から、教えていただくことは、実に、多い。

多いですね。本当に。

死者への尽きない敬慕、感謝とともに、そのように感じます。

さて断片的に、風、霊、オカルト、さらに三島由紀夫からの連想で、三島由紀夫氏の死と、遠藤周作氏について、最後の章を、綴らせていただきまして、擱筆いたします。

いかにも纏まりなく、散らかったままの、拙い文ですが、もう少しだけ、お付き合いくださいましたら、幸甚です。

昭和45年秋、三島由紀夫さんが、市ヶ谷の自衛隊駐屯地にて、東部方面総監の益田兼利陸将を人質に取り、憲法の改正を訴えて、自刃なさったとき、首相をはじめ一部の方々が、三島さんを狂人と称したのだそうでございますね。わたくしは当時小学生でしたので、まったく記憶にないのですが、どうもそうらしいのです。

その後、当時の雑誌を幾冊か、古書店で贖って知ったのですが、そのような状況のなか、遠藤周作さんが、「三島さんの思想と行動は最後の一点で完全に結びついた。壮烈であり、清潔である」と早い時期に、コメントなさっておりました(昭和45年「週刊サンケイ三島由紀夫特集」。しかし、それは転載されたもののようで、遠藤周作氏コメント初出の掲載誌あるいは掲載紙は未見となります)。

それを拝見した私は、粛然といたしました。

事件直後、誰もが、三島由紀夫から距離を取るなかでの、このコメントです。

文壇以外では、多変数解析函数論の世界的数学者、岡潔氏が、「私は夕立ちの爽やかさを感じる。このうっとうしい世相の中に」とコメントなさいましたが(『週刊現代三島由紀夫特集』)、文壇関係者で、三島由紀夫に肯定的な言説を述べた方は、管見では、澁澤龍彦氏、石川淳氏、小林秀雄氏、村松剛氏、保田與重郎氏、円地文子氏、森茉莉氏、倉橋由美子氏、林房雄氏、辻井喬(堤清二)氏など少数でしょうか。

また、国文学者では、三島氏の恩師清水文雄氏、『日本文藝史』の小西甚一氏、独逸文学者では、西尾幹二氏、国史学者では、奈良本辰也氏、宗教家では、「ただひとり谷口先生だけは我々の行為の意義を知ってくれると思う」と、自刃数日前、三島氏に言わしめたという谷口雅春氏らのお名前が浮かびます。

(故人では蓮田善明氏が御存命であれば、三島由紀夫氏と共に蹶起なさったのではないでしょうか。小高根二郎氏が記されましたように、「その善明が、由紀夫の決起を知って帰ってこぬはずはない」(『新潮』1971年2月号58ページ)でしょうから。)

たしかに、事件直後、その発言には慎重にならざるを得なかったのでしょう。そのなかで、遠藤周作さんは、それは、あまりにも、愚直かもしれないですし、そして、遠藤さんご自身、三島由紀夫さんを個人的にお好きだったということもございましょうが、しかし事件後の早い段階で、三島由紀夫の行動を「壮烈であり、清潔」と表現し得たことは、凄い。

わたくしはそこに、遠藤氏の、鋭い霊的直観と気迫とを感得し、瞠目し、衷心より畏敬の念を覚えたものです。

三島由紀夫と遠藤周作と、お二人ともインドのベナレスの地にて、深く切にインスパイアされ、輪廻転生を主題にしたライフワークを書いていらっしゃいますね。(三島由紀夫『豊饒の海』第三巻『暁の寺』の、犠牲の山羊の斬首、あるいは、白い聖牛が振り向く際の、あの本多の戦慄、そして、遠藤周作『深い河』の、あの終幕のカタストロフィ。)

これもまた、究極的には、お二人を深く結ぶ、見えない絆でもございましょうか。

齢を重ねましてから、遠藤さんの文学の大きさと深さ、優しみを、ようやく感得できるようになりました。

もちろん、あの、お茶目で、ぐうたら、狐狸庵先生も、わたくしは大好きですが。

雪姫のしもべさまには、わかっていただけるとおもいまして、拙文を綴らせていただきました。

随分と長文になってしまいました。

何卒お許しくださいませ。

皆様におかれましては貴重なお時間を賜わりまして、拙文をご高欄いただきましたこと、本当にありがとうございました。

心よりの感謝を捧げます。

野上透写真集『文士一瞬』(柏鵬舎)
表紙の三島由紀夫(1970年7月6日撮影)
三島由紀夫氏は、谷崎潤一郎賞銓衡委員として、遠藤周作『沈黙』を、「遠藤氏の最高傑作」と、極めて高く評価なさいました。(『決定版三島由紀夫全集』第34巻所収)
この写真の撮影日である1970年7月6日付、川端康成氏宛書簡では、三島氏は、「時間の一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じられ、空間的事物には、ほとんど何の興味もなくなりました。この夏は又、一家揃つて下田へまゐります。美しい夏であればよいがと思ひます。」
と、したためました。
秋には死ぬことを思い定め、「時間の一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じられる」人の肖像写真が遺されました。
同写真集の遠藤周作氏。
三島由紀夫逝去のおよそ一週間後1970年12月3日撮影。
遠藤周作氏は、同世代の安岡章太郎氏、吉行淳之介氏、安部公房氏らが、各々の流儀にて、三島事件に距離を置いていたのに対し、事件発生から間髪を入れず、透徹した言説を述べました。
『三島由紀夫が死んだ日』(実業之日本社)
映画監督の篠田正浩氏は、以下のように、貴重なご証言を述べていらっしゃいます。
「同じ時期、私は遠藤周作『沈黙』を映画にしようと苦戦を強いられていた。
(中略)
ついに資金の調達に失敗して、製作中断を余儀なくされた。主人公の宣教師を演ずるはずの俳優デイビッド・ランプソンに延期を告げるために彼を銀座に誘った。
その酒場から路上に出たとき、ばったりと三島由紀夫と目が合った。
(中略)
私は事のいきさつを語った。
三島はデイビッドに『遠藤のあの小説はすばらしいから、必ず成功してくれよ』と言った。
そして私の顔を見つめながら『さよなら』といった。昭和四十五年十一月二十五日はその直後であった。」
(映画監督篠田正浩氏、前掲書100〜101ページ)
死の数日前に、「遠藤のあの小説は素晴らしいから」と三島由紀夫氏が語った事実が、心に沁みいります。
母に導かれて受洗した兵庫県の夙川カトリック教会。

「自分で選んだ信仰じゃないからね。母から否応なく着せられた服をずっと着つづけているようで、着心地が落ち着かないんだよ。でもそれがどうしても脱げないの。不思議だねえ」
「それは遠藤さんが誰よりも好きなお母さまが選んだ服だからよ。ほかの人に着せられたら、遠藤さん、とっくに脱いでいる」
私がそういった時、遠藤さんが実に嬉しそうな美しい笑顔をして、
「そうだ、きっと、そうだよな」
とうなづいた。忘れもしない。京都の法然院の静かな庭での立話だった。

瀬戸内寂聴「『深い河』を読む」