中央大学卒業論文第3章 | 女性発達障害アラサー中央大学とシューレ大学卒税理士試験受験生ASDと高次脳障害のハリネズミのブログ

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アラサー中央大と卒とシューレ大学卒の発達障害(asd)と高次脳障害のハリネズミです。ラップファシリテーターと日商簿記2級の資格を持っています。今は税理士を目指して勉強中です。
これまでの経験や通っている障害者の生活介護pでの様子などを書いています。

第3章 規範に伏在する暴力性

 

3-1 社会規範

 

・1・2章では主に倫理学的な観点から各立場において社会適応はどのような規範である かについて述べた

・この章では、この社会においてはどうかについて述べる

 

この社会における「社会適応」とは

この社会において「社会適応」をするというのは、具体的には何をすることだろうか。一般的には、学齢期には学校に通うこと、学校卒業後は就職し自立した生活を営み、税金を納めることだろう。逆にこれらができていない場合、社会適応ができていないという言葉が使われることが多い。

では、社会適応をするために必要なことは何だろうか。高橋(2012)は近年引きこもりの増加などから、「自立して社会でやっていくためのスキル」の重要性が指摘されており、そういったスキルを定義づける動きが出てきたと述べている。それは、経済産業省による「社会人基礎力(職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な力)」、内閣府による「人間力(社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力)」などであり、これらには表現は異なっていても次のような共通要素が含まれていると言う。①コミュニケーションスキルを含む社会的能力②論理的思考などを含む課題解決能力③自分を知り、よい状態を保ちながら、さらに向上を目指す自己管理能力である。これらをこれから論じることのために言い換えると、社会適応に必要なこととは、対人関係能力(社会性)、生産(稼ぐ・社会に貢献する)能力、この社会の価値基準を受け入れその達成を自ら目指すこととも言えるだろう。

 

なぜ社会適応はすべきことであるとされるのか

次になぜ社会適応はすべきことであるとされるのか、その理由として何が考えられるかについて検討する。ここでは主要な理由となっていると思われる生産性と社会性の側面から考える。

 

生産性の観点から

1.必要性

この社会の規則について立岩は「自らが産出したとされるものから得られる利益をそのものが受け取ることを権利として、その範囲内で生きることを義務とする、そのような規則を有する社会としてこの社会がある」、「私が私の働きの結果を私のものにする」という労働による取得という規則があると述べている。

このような仕組みでは、基本的には(実際には色々例外もあるが)、社会に適応し労働をすることによって収入を得なければ生活していくことができない。したがって生活をするためには社会適応をする必要がある・せざるを得ないという、必要性がまず理由の一つとして考えられるだろう。

 

2.価値

また、単に必要性があるからというだけでなく、「労働をし、能力に応じた報酬・評価を得る」ということが、当然・正当・正しい、また、価値のあることであるために、社会適応すべきであるという考え方もあるだろう

立岩は~について以下のように述べている

 

この社会は、人の能力の差異に既定されて、人の受け取りと人の価値が決まる、そしてそれが「正しい」とされている社会である。

 

人々の身体の状態・力能とそれによって産出されるものと、そこに生じる利得とをつなげ、自らが産出したとされるものから得られる利益をそのものが受け取ることを権利として、その範囲内で生きることを義務とする、そのような規則を有する社会としてこの社会があることであると考える。そして、それが当然の正当な事とされていること、それを価値として信じていること、信じていないとしてもそういうものだとされていることだと考える

 

 

社会性の観点から

1.必要性

社会性の観点からも、生産性と同じように、まず必要性が理由としてあげられるだろう。生活するためには人と関わる必要があり、関わりがうまくいかないと困ることになる。したがって社会性は必要であるという理由である。

 

2. 価値

また、社会性は非常に善いもの・価値のあるものであるとされているということも理由として大きいと考えられる。

・『自閉症の倫理学』から引用:善き人生、道徳のメンバーシップに重要

・田中は「わが国の学校教育や地域社会においては、「たくさん友達をつくる」「誰とでも仲よくする」という考え方が通年となっています。」と述べている。また米田も、「一般社会での認識では、対人交流に高い価値が置かれています。すなわち、交友関係が広く、深い関係を受ける人ほど、高い評価を得ることが多いのです。」と述べている。

 

まとめ:

つまり、この社会において社会適応がすべきこと、あるいはするのが善いことであるとされるのは、単に必要だからというだけでなく、この社会では生産性の高さや対人交流に高い価値を置く規範があるからというのも理由として大きいだろう。

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本文準備:3-2 個人差の問題:障碍者にとっての社会適応

 

障害者にとっての社会適応

・障害者の場合も社会適応は当然すべきこととされている

・むしろ健常者以上に「自立」「社会適応」を早期から意識して取り組まされる

・障害者の場合は、社会適応のために障害を改善・克服するための治療や訓練をすることが求められる

 

 

なぜ社会適応をすべきとされるのか

・障害者の場合も前の節で述べた理由と※基本的に同様である

 つまり、

 ・この社会の規則:労働による取得

   →生きていくためには稼ぐ必要があり、稼ぐためにはできるようになる必要がある

 ・この社会の規範:生産性の高さや対人交流に高い価値がある

   →できるようになるのはよいこと・価値のあること

 

※障害者の場合は、必ずしも健常者と同じレベルでできることが求められるわけではない。

 しかし、できる限りできるようにすることは求められる。

 

個人差の問題

・この社会の規範は平均的な個人像をもとに考えられており、個人差が考慮されていないあるいは、意識されていないのではないか

・そのことによって、障害者の社会適応において、社会規範が障害者に暴力的に作用する場合がああるのではないか

・これからその規範の暴力性の問題について、価値の設定による問題と偏った負担の問題の2つに分けて論じていく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本文準備:3-3 価値の設定による暴力性

 

→障害が単に不便というだけでなく、道徳的によくないということにもなってしまう

 

・この社会の規範の片面(プラス面)だけしか見られていないのではないか。

・確かに、規範があることによって、成長や改善につながるといったプラスの側面がある。しかし、多くの場合プラスの側面しか見られていないのではないか。

・ここでは、意識されることの少ないこの社会の規範の負の側面(価値の設定によって生じる規範の暴力性の問題)について色々な本から引用をもとに論じる。

 

・以下でこの社会にある規範とその規範があることによって生じる問題についていくつかの規範を例に述べる。

 

障害はなおすべき・なおったほうがよい

 

障害はマイナス

・「障害を持つ人のほうを、この社会に合わせよう」と考える。この考えでいくと、障害がある状態というのはつねにマイナスな状態、少なくともよい状態ではない、ということになってしまう。このような考えのもとでは、障害をもつ人は「医療、福祉、看護、そして特別な教育が必要な人」としてのみ扱われ(『生を肯定する倫理へ』p17)

・障害はないにこしたことはない、という発想が前面に出てくる。このような発想のもとでは、障害という属性は否定すべきものとなり、従って障害者は否定された存在として生きていかなければならなくなる(『生を肯定する倫理へ』p20)

 

※・障害の社会モデル:この考え方でいくと、障害があること自体は必ずしもよくないことではない、ということになる。(『生を肯定する倫理へ』

 

・医療やリハビリテーションという空間は、基本的に治ったほうがよいという空間である。そのなかで、なおらないことは肩身の狭い思いをすることである

(『臨床社会学の実践』p180)

 

→障害はなおすべきとなってしまうと、障害のある状態が常にマイナスな状態、少なくともよい状態ではないということになってしまう。(これは完治する可能性のない障害を抱える障害者にとっては暴力的)

 

 

 

「正常でない」という見方

 

・「欠点を改める」「落差を埋める」という視点

・『発達障害の再考:尾崎』から要約

尾崎は「いわゆる診断基準になっているような発達障害の捉え方は、本人たちをとても傷つけている」と述べている。というのは~であるからである。

 

 ・『私たち発達障害と生きてます』から要約

 高森は、療法によっては治療の対象となる当事者を「あなたはどこかが間違っている」という眼差しでみてしまうことになるとし、その支援者によってつくり出された障害に対する否定的な眼差しが、支援を求めてきた彼女/彼らをどん底につき落としてしまうこともあると述べている。

 

 『あなたがあなたであるために』から要約

・違いであるということを強調している。そのような認識なしに特別な工夫を学んだり使用することによって、自分の感じ方は間違っていると思い詰めてしまう場合がある。

 

 なおすことがよい

 ・詳しくは後述するが、なおすことには負担が伴う

 

・合わない世界に合わせることに本気で取り組んでしまうと、そもそも得意ではないのでそれに取り組んでいるわけだから、そううまくはいかない。「自己評価」が低くなる。(『自閉症連続体の時代』)

 

・人種差別(『自閉症スペクトラム』)

ASWDの存在を理解することによって、ASの理解と支援の枠組みを一歩前進させることができる。すなわち、ASという種族特有の成人期の社会適応像があり、支援における目標はそこに設定すべきである。すべてを通常(いわゆる定型発達)の成人に近づけるのは、不適切というだけでなく、ASという種族の基本的人権を脅かすことになる。

 

・仮の適応術(『自閉症連続体の時代』)

・社会的フォルマリズム(『アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか』)

もう一つの答えは、「心」という考えには実態がないという前提で、社会的関係を調整する技術を開発することです。日常生活においては、心に依らずに相互作用の形式に注目することで、社会との関わりを適切に制御できる可能性はあります。(略)理由がわからなくても(略)できます。あまり難しいことを考えずに、単純にそういう社会的な規則性のセットを学習していけば、内容の有無とは関係なく、表面的な感じの良さを獲得することは不可能ではありません。(略)こういう考え方を忘れないでいくために、この考えを社会的フォルマリズム(形式主義)と名づけておくことにしましょう。このような社会的フォルマリズムを利用すれば、アスペルガー者は内的なリアリティを犠牲にすることなしに、それを保留にしたままで、気分よく当たり前の世間と付き合うことができます。心がどうしたというような余計なことに煩わされる必要はありません。

・情報処理の難しさ(?)の結果として「人の心」という説明様式を実感をもって共有できないことによる世界の見え方の差異

・支援がときとして「人の心を理解する」ことの強要になってしまう(略)アスペルガー者にはアスペルガーの文化があります。重要なのはアスペルガー者を健常者に見せかけることではなく(略)252

 

 

できることがよい・生産性が高い方がよい

 

・できるべき→できない→非難・否定/肩身の狭い思い

 

・認識(正しいと思うか)で違い

・仕組み上絶対

 

自分のことは自分で

規則としてだけでなく、価値観としてもある

・あらゆるものを犠牲にしてでも自立→偏った負担

・人の手を借りるのはよくない→肩身の狭い思いをし続けなければならない人がいる

 

『生を肯定する倫理へ』

・福祉を受給するということが、「公共のお世話」になること、さらにはそうなることで「社会の落伍者」であるとみなされることになること、ここを考えなければいけないのである。つまりは、福祉を受けるということをスティグマとするような社会こそ問題にしなければいけないはずである。福祉受給者に、他人の力を借りて生きるなんて恥ずかしいと思わせるような社会の価値観こそ問題にしなければならないはずである。

 

 

(・人々の差異を調査することをスティグマ化する私たちの社会こそが問い直されるべきなのだ。そして、他人の力を借りて生きることに恥辱を与えない社会が目指されるべきだと言ってよい。そこでは当然、私的所有の原理が問われることになる。この社会において、何か能力があるからといって、その能力を使って生み出した果実への権利を、能力を所有するものに何の疑いもなく付与する社会とは別様の社会を目指すべきだということでもある。112)

 

『弱くある自由へ』

・「特異な存在」であることと「労働ができない」こと。一九七〇年こと始まった障害者の運動は随分とこのことにこだわった。こだわる必要がなくなったのだとすればそれは善いことだ。実際そういえる部分があると思う。そしてそれは約三〇年の「成果」でもあるだろう。それでも、右の引用のように言わせるものがなくなったわけではない。

 

・「(略)成人して(略)なお親に食わせてもらう/生活保護は税金として強制的に国民から取り上げたものの一部であり、親の働きは本人の働きではないのである。(略)我々働けない者は生きていること自体贅沢だということになる。「なにもそこまでいってやしない」と言うだろう。が、そのそこまでという言葉の中に残忍なまでの差別意識が潜んでいるのに気がつかないのだろうか。(略)」(横塚「募金活動を振り返って」)97

 

・「(略)生産活動にたづさわれない状態にあります。このことは生産第一主義の減社会においては脳性マヒ者はともすれば社会の片隅におかれ人権を無視されひいては人命迄もおろそかにされることになりがちです。このような働かざる者人に非ずという社会風潮の中で私達脳性マヒ者は「本来あってはならない存在」として位置づけられるのです。」98

 

・一九九〇年七月、合衆国で「アメリカ障害者法」/「資格のある障害者」/職務に伴う本質的な機能/これに対して重度障害者の切り捨てであるという批判が、しかし少し及び腰の批判が、なされる。

 

・「(略)方便にしても、ペイできるからという説得を得々として吹聴しているあたりが、どうも気になるのである…脳性マヒなどの重度障害者は、よほど特異な才能にでも恵まれないかぎり、間接的に社会に寄与できる分をプラスしたとしても、ペイできるなどといえる状態になれる筈は、あり得ようもないのだ。(略)経済効率に価値観を置く限り、重度障害者はまさに救いようがないのだ。戦後の重度障害者運動は、まさにそうした経済的稼働能力オンリーの価値観の枷(かせ)から、どう開放され、どう超克して行くかの闘いでもあったのだ。(略)」

 

・「無限の可能性を信奉するアメリカの障碍者運動は、「障碍者は機会が与えられれえば働ける」と主張し、福祉の「受給者」から「納税者」になることで、社会に貢献するという価値観を堅持する。しかし、「機会の平等」は、即「結果の平等」にはつながらない。確かに、仕事を遂行する能力がありながら(略)しかし一方で、企業の要求する職務内容を遂行する能力に欠ける障碍者も多くいることは、厳然たる事実である。そして脳性マヒ者の多くは、そのような存在である。(略)」

 

『アスペルがー症候群が楽になる本』

・社会人として相手に配慮を求めるということは、一般的に、本来自分が負うべき業務や負担を肩代わりしてもらうことです。配慮を求められた側にメリットがない場合には、相手に負担だけがふえることになります。それでは、相手には釈然としない思いが残るのは、ある意味で健康な心の動きです。私が何をいいたいのかといえば、他人の善意に過度な期待をするのは、現実離れした行為であるということです。7

 

・ハンディキャップにもかかわらず努力している姿勢への理解が深まり、評価も変わっていくのではないでしょか。

・きっと奥様は、行動を変えようとするご主人の姿を見ることで、奥様自身が満たされているのでしょう。ただし、そうだとしても、腹立たしく思ったり、不愉快に思うこともきっとあると思います。これまで紹介したケースの家族では、そうした反応が多くみられました。また、診察を行う私自身もいらついてしまうことが少なくありません。

・理解と配慮を求めるのであれば、当事者自身も発達的に変化するチャレンジを続けていく覚悟が必要なのです。

配慮は善意である。聖人君子ではないから、腹立たしく思ったり不快になったりするのも当然。変えようと最大限に努力する姿勢を見せれば、相手の気持ちも多少は緩和されるから、修正に向けて努力しつづけるべき。ただし、それでも、相手が不快に思ったりするのは当然。相手はする必要のない、自分が負うべき負担を肩代わりしてくれているから。

 

・機会の平等:能力だけを評価

・できる限り努力

・できない分だけ福祉:最低限を保障で解決する問題でもない

 

できることは人としての価値を示す

・できることが自分の価値→できない→存在価値がない

 

・『私的所有論』公教育:から引用

 

『人間の条件』

・できると得すること、得してよいとされること、できる人は価値づけられてよいとされることは、この社会の一番大きな部品だと思う。

 

・そして、自分がすること、できることが自分の価値であるという価値がある。そんな価値のある社会に私たちは生きている。(略)できることが賞賛されたりうらやましがられたりといったことはどこでもあるだろう。そうしてできる人がほめられたりねたまれたりすることもたいがいの社会にあるだろう。けれども、私たちの社会では、できる(できない)ことが、人の存在の価値を決める。その強さ弱さは程度問題だともいえる。けれどもその程度の差は無視できない。

 

生存より上回る場合も

『人間の条件』87-88

・つまり、できることが人間の存在の価値であり、それが失われるから死ぬという

のである

 

 『なおすことについて』

・自分ができるようになること、できる状態でいることに大きな価値を付与する。(中略)他方で、そのために支払うものを小さく見る。ただ安楽に暮らすことは軽くされる。ただ暮らすために他の人に他のものに頼ることは重くされる。そのことによって、なおすことの方に天秤が傾く。他方、もうそれが不可能だとされるときには、みずからによって死が選ばれる。そのように思うに至らせる装置が社会の中に与えられている。

 

・出発点は、どんな生であっても生きることが無条件に肯定されるべきなのか、それとも条件つきで肯定されるべきなのか、私たちの社会はどちらを選ぶのか、にある。(『生を肯定する倫理へ』113)

 

・親が、「この世でやっていくためには」と言い、「本人のために」と言う・そしてこれは間違っていない。しかし、「この世」が間違っている、変えてしまえばよい、ということだ。すると、そんなことはできないと返されるのだろうが、そんなことはないと私は思う。(略)

・ただ今はそうなっていないというのはそのとおりだ。(略)結局は、そこで止まってしまうという感じがするかもしれない。しかし、そうでもない。「私のせいではない」ことを言うだけよりは意味がある。まず、今のが当たり前だと思っているなら、思わないほうがよい。すると、それでうまくいかなかったのは自分のせいだ、とか、さらに、誰のせいか知らないが、自分の今の状態はそれで仕方がない、とか思わないですむ。また当たり前だとなれば、もっとできる人はもっと得ても当然ということになり、差はもっと大きくなる。当たり前でないということになれば、差は大きくならない。だからわかることは「現実」に対して意味がないわけではない。そして当たり前だと思わないなら、この世を現実に別の方角に向けていくことができる。186

→認識(正しいと思うか)で違い

 

 

社会性:人との交流は人として重要・できるべき

 

・アスペルガー者にとって、「適応を難しくしかねない信念」とは何でしょうか。ひとつの例として、「他者との交流に高い価値を与える信念」が挙げられます。(中略)もともとアスペルガー障害は、深刻な対人・社会性の障害をともなっています。つまり、他者と交流する能力という側面から評価した場合には、必ず健常者より劣るという結果になります。この場合に、他者との交流に高い価値を与えるような信念を持っていれば、必ず自己評価は低くならざるを得ません。このような自己評価の低さは、それ自体社会への適応を妨げます。そのため、ますます他社との交流の面で劣る結果となり、さらにいっそう、自己評価を引き下げるという悪循環が発生します。【米田秀介『アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか?』】

 

・アスペルガー者に対するSST(ソーシャルスキルトレーニング)には、一定の有効性があります。しかし、けして本質的な障害を改善できるものではないということを認識する必要があります。むしろ重要なのは、それが「一時的で表面的な力を獲得するためのもの」であることを、アスペルガー当事者も支援者も理解しておくことです。(中略)「社会的スキルが高いことがよいことである」という規範をアスペルガー者が認識してしまうと、アスペルガー者は社会的スキルが現に低いのですから、当然ながら不全感が強まります。【米田秀介(2011)『アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか?』講談社】

 

・引き上げる作業は、彼らに無理なハードルをつくる。そして、社会性の障害を一生かかえる彼らに、変わらなければならないという価値観を押し付けてしまう危険すらあるんです。

 

 

『自閉症の倫理学』

・フリスとヌスバウムのつながりは一目瞭然である。この共感能力を欠いた人は、良い人生とは言えない人生、すなわちある種の共感的つながりをもてないがゆえに良さが損なわれてしまった人生を送る110

 

・以上をまとめると、スキャンロン、ヴィーチ、パーフィットが提供している議論から、いくつかの興味ある結論を引き出すことができる。(略)第三の結論は、客観的リストの曖昧さにも関わらず、それらが共通して支持している何かがありそうだということである。それは、他の人間との関係が人の幸せに本質的な貢献をなしているという点だ。他の人間との交流は非常に重要であり、それなしに人の幸せがあるとはとても言えない。この交流が例えば子供をもつという形態でなければならない、とは誰も主張しない。しかし、幸せには他者との関係が必要である。120

 

・ボブソンの問いはウォレンの問いと同じである。ある者を、人格、つまり道徳共同体のメンバーとするものは何か?ボブソンの答えは、良き人生と幸せに関するヌスバウム、スキャンロン、ヴィーチ、パーフィットの主張と多くを共有している。人格であるということは、内在的な性質ではなく関係的な性質、とくにその者が他の人格との間に持つ関係に根ざすものだ。125

・ヌスバウム、スキャンロン、ヴィーチ、パーフィットは、これらの関係は人生がうまくいくということの一部をなすと考えているが、しかしボブソンによれば、それらは人生がうまくいくということに関わっているだけのものではなく、ある人がそもそも人格であるかということ、つまり道徳共同体のメンバーであるということにも関わっている。ボブソンの説明によれば自閉症者は心の理論が欠けているために、道徳共同体のメンバーにはなれない。ボブソンにとって自閉症者は道徳共同体の外に存在し、生物学的には人間であっても、道徳的意味においては人格ではない。125