中央大学卒業論文序論と第一章 | 女性発達障害アラサー中央大学とシューレ大学卒税理士試験受験生ASDと高次脳障害のハリネズミのブログ

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アラサー中央大と卒とシューレ大学卒の発達障害(asd)と高次脳障害のハリネズミです。ラップファシリテーターと日商簿記2級の資格を持っています。今は税理士を目指して勉強中です。
これまでの経験や通っている障害者の生活介護pでの様子などを書いています。

序論

 

 現代の日本において、学校に行くこと、学校卒業後は就職をすることなどは、当然すべきこととして捉えている人が大部分であると思われる。そのような当然すべきであるとされる社会適応について、本論文では社会適応は本当に当然すべきこと、つまりは社会的な「規範」であり得るのか、そうだとすればその根拠は何であるのかといったことについて考えてみたい。

 そこで、本論文では「社会適応はすべきこと・規範であるのか」、また「規範である場合は、どのような規範であるか」について、規範倫理学など規範に関する様々な倫理学・哲学の立場から検討する。また様々な規範に即した考察を経た後、そこから生じた新たな問題として規範に伏在する暴力性についてこの論文で可能な範囲で論じる。

 

第1章では、規範倫理学である「功利主義」「義務論」「徳倫理」の3つの立場を取り上げ、各理論について説明した後、それぞれの立場における社会適応の位置づけを検討する。

第2章では、規範倫理学に批判的な立場として、「倫理的利己主義」「文化的相対主義」「懐疑主義」の3つの立場を取り上げ、各理論についての説明をした後、それぞれの立場における社会適応の位置づけを検討する。

第3章では、障害者にとっての社会適応をもとに、規範を設定することによって生じる規範の暴力性の問題を論じる。

 

 なお、この論文において「社会適応」という言葉が示す内容としては、「自身の属する社会において、年齢や立場に応じて、社会の成員として要求される(ふさわしい・することが当然とされる)行動をとること」を想定している。例えば、私たちの場合であれば、現代の日本において、学齢期にあっては学校に行くこと、学齢期以降働けなくなるまでの年齢にあっては就職し自立した生活を営み、税金を納めるといったようなことである。

 

本論文で使用する「義務」「すべきこと」に関する用語の定義

本論文では以下の用語を以下のような定義で使用する。

・狭義の義務=義務論のような、義務それ自体が動機となる義務

・広義の義務=義務以外が動機であり、その動機の結果として要請される義務(規範)。「~せねばならに」という制約一般

・行為規範=規範から要請される行為。「~せねばならない」「すべき」という程には強制力が強くない、「要請される」程度の行為も含む。

 

行為規範(規範)>義務(「~せねばならない」という制約一般)=「すべきこと」>狭義の義務

第1章 規範倫理学の立場からの「社会適応」についての検討

 

1-1功利主義

 

この節では、功利主義について、参考書から、①功利主義の簡単な説明、②功利主義の特徴、③功利主義の種類、④なぜ幸福を最大化する行為が正しいのか、を説明する。

次に、それを踏まえて、功利主義において社会適応がどのような位置づけになるかについての私の見解を述べることとする。

 

功利主義とは

功利主義は、「最大多数の最大幸福」というスローガンでよく知られている。功利主義の主張を簡単に述べると、「道徳的に正しい行為や政策とは、社会の成員に最大の幸福をもたらすものである」となる。

 

功利主義の特徴

それでは、より具体的な功利主義の特徴を見ていくこととしよう。児玉(2012)によれば、功利主義の特徴を列挙すると、以下のようになる。

 

(1) 帰結主義。行為の正しさを評価するには、行為の帰結を評価することが重要である。「帰結」とは結果のことだが、「結果主義」と書かないのは、功利主義はいわゆる「結果論」ではないからだ。「なんにせよ結果がよかったのだから、その行為は正しかったのだ」と行為を事後的に評価するのが結果論だ。それに対して帰結主義は通常、「こう行為すると、こういうことが結果として起きるだろう」という事前の予測に基づいて、行為の正しさを評価するものである。

 

(2) 幸福主義。行為の帰結といってもいろいろありうるが、行為が人々の幸福に与える影響こそが倫理的に重要な帰結であると考える立場が、幸福主義だ。何かの役に立つという理由からではなく、それ自体に価値があることを「内在的価値」と呼ぶが、幸福主義によれば、この世界で内的価値を持つのは幸福だけであり、それ以外のものは幸福になるための手段として道具的価値を持つに過ぎない。

 

(3) 総和最大化。功利主義では、一個人の幸福を最大化することを考えるのではなく、人々の幸福を総和、つまり足し算して、それが最大になるように努める必要がある。そのさい。「各人を一人として数え、誰もそれ以上には数えない」(ベンタム)ことが大切だ。これには、一人を一人として数えるという公平性の配慮が働いている。

 

功利主義の種類

 以上で述べたものが、功利主義の特徴であるが、功利主義の中にも様々な種類がある。ここでは、功利主義における社会適応の位置づけを考える際に、関わってくるであろう、何の帰結を評価するかの違いによるいくつかの種類を挙げる

帰結主義は、何の帰結が評価の対象になるのかに応じて、異なる形を取る。ここでは、行為の帰結を評価する行為功利主義と規則の帰結を評価する規則功利主義、動機の帰結を評価する動機功利主義について述べる。赤林(2007)の説明をまとめると、それぞれは以下のように説明できる。

 

(1) 行為功利主義:功利主義を個々の行為に適用。行為の正・不正は行為そのものの良い帰結または悪い帰結によって判定されるべきであるという考え方。

 

(2) 規則功利主義:功利主義を功利原則の規則に適用。正しい行為とは有益な規則に合致した行為。有益な規則とはそれらが一般的に受け入れられているかまたは遵守されるときに善い結果をもたらすと考えられる規則である

 

(3) 動機功利主義:功利主義を動機に適応。人々は社会全体の幸福を最もよく促進するような諸々の動機を持つべきである。人々が社会全体の幸福の最大化に役立つような諸々の動機を身につけることが望ましいという考え方。こうした動機に発する行為は、たとえ個別の場面では必ずしも社会全体の幸福の最大化につながらないとしても、正しい行為だとみなされる。

 

なぜ幸福を最大化するように行為すべきなのか‐功利主義における善の理論と正の理論

 まず、功利主義において正しい行為とはどのような行為であるか、今まで述べてきたことをもとにまとめよう。功利主義の正の理論は、行為の正・不正は、その帰結の善悪によって決まる、つまり可能な限り多くの幸福をもたらす、行為、規則、動機が正しい、というものである。

そして、そのような行為が正しいと言えるのはなぜだろうか。その根拠は、それ自体に価値があるものは幸福だけだからである。つまり、功利主義の正の理論は、幸福のみに内在的価値があるというその善の理論の基盤の上に成り立っているのである。

 

功利主義における社会適応の位置づけ

 以上で述べてきたことから考えると、功利主義における社会適応の位置づけはどのようなものになるだろうか。まず、行為功利主義では、社会適応をするべきであるということになるだろう。なぜなら、社会適応をしないこという行為より、社会適応することの方が最大多数の最大幸福につながるからである。次に、動機功利主義では、社会全体の幸福の最大化に役立つために、社会適応をしようという動機を持つべきであるということになる。これは、動機功利主義が、社会全体の幸福の最大化に役立つような動機を持つべきだとするからである。

 そして、いずれの場合においても、社会適応は功利主義原理から要請される義務(広義の義務)であると言うことができる。

 

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1-2義務論 

 

 この節では、まず、カントの義務論について、参考書をもとに、①義務論とは何か、②なぜ義務論では「帰結」ではなく「動機」を重視するのか、③義務の具体的な内容、④義務の知られ方とその根拠を説明する。次に、それまでの説明についての簡単なまとめを提示した後、それを踏まえて、義務論において社会適応はどのような位置づけになるかについての私の見解を述べることとする。

 

義務論とは何か

 義務論とは、「行為はそのもたらす帰結の良し悪しとはかかわりなく、道徳的原理ないし規則に従って、義務としてなされるべきである」という立場である。端的にいうと、結果にかかわらず、「これをしなくてはならないからする。すべきだからする」という考え方である。義務論においては、「行動を道徳的に価値あるものとするのは、『帰結』ではなく『動機』なのであり、道徳法則(道徳律)の義務のためになされた行為だけが道徳的に正しいのである。これが義務論の義務論たる所以であり、結果に関わらず、実行しなければならない義務として道徳を考える」。

 

なぜ「帰結」ではなく「動機」なのか‐なぜ義務のためになされた行為だけが正しいのか

 なぜカントの義務論では帰結ではなく動機が重要だと考えるのだろうか。それは、無制限に善いもの、すなわち、それ自体として善いものは善意志だけだからである。なぜなら、知力、才気、判断力、勇気、権力、富、名誉、健康など様々な善いもがあるが、それらを用いるのは私たちの意志であって、意志が悪いものであるなら、それらもまた有害になりかねないからである。これに対して、善意志は無制限に、それ自体として善い。したがって、善さは目的を達することに依拠しない。過酷な運命のために目的を貫徹する能力が欠けており、最大の努力を払ったにもかかわらず何ひとつ果たせずに終わるとしても、善意志は宝石のように輝くのである。

 また、善意志とは、自らの道徳的義務を果たそうとする意志であるが、「義務にかなっている」だけの行為と「義務から」なされる行為には決定的な違いがある。例えば、正直な商売をする理由が、「利益になるから」と「正直でありたいから」とでは動機が違い、カントによれば後者だけが正しいことになる。利益を理由とする行動は、カントの観点からは望ましくない考え方なのである。このように、本当の道徳的価値をもつのは義務からなされた行為だけなのである。

 

義務の内容

 では、道徳的義務とは何を示すのだろうか。カントは、道徳は一つの究極的原理に要約でき、それから我々のすべての義務や責務が由来していると考えた。彼はこの原理を定言命法と呼んでおり、この道徳原理の義務のためになされた行為だけが正しいとする。定言命法は一つ目の定式である「普遍的法則の定式」と、二つ目の定式である「目的自体の定式」からなる。

 まず、「普遍的法則」の定式とは、「あなたは、普遍的法則となることを同時に意志できるような格率によってのみ行動しなさい。」と命じるものである。「格率」とは、私たちが行為にあたって採用する主観的行動原理のことである。

 それでは、具体的に義務とはどのように同定されるのか。たとえば、「困っているときには、守るつもりのない約束をしてもよい」という格率が義務に反していないかどうか知るためには、この格率を普遍的法則として意志できるかどうかを考えてみればよい。すると、このような格率が矛盾を含むことが明らかになる。なぜなら、「自分の都合の悪いときには偽りの約束をしてもよい」という確率が普遍的法則になった場合、約束という習慣そのものが破綻しまい、困っているときに約束をすることさえできなくなるからである。そしてここから、「偽りの約束をしてはならない」という義務が例外を認めないものとして導き出されることになる。

 次に、「目的自体の定式」とは、「あなたは、あなた自身の人格においてであれ、他者の人格においてであれ、人間性を常に目的として扱い、決して単に手段として扱わないように行動しなさい」と命じるものである。これは、我々は、我々の目的を達成するために、人々を操ったり、あるいは使用してはならないということである。

 例えば、あなたが自分の目的のために、返済できないことを知っていながら、必ず返済すると約束をして借金をするのは、友人を「手段」として扱うということである。他方で、あなたがある目的のためにお金を必要としているが、返せそうもないと真実を話した上で、友人に選択を委ね、友人自身がこの目的のためにお金をだす決心をしたならば、友人はその目的を彼自身の目的にすることを選ぶことになる。そうすると、あなたは友人を「手段」として扱わずに「目的」として扱ったことになるわけである。

 以上により、義務とは、定言命法である「普遍化法則の定式」と「目的自体の定式」に基づいた行動であり、その義務によってなされた行為だけが正しいことがわかった。

 

義務の知られ方と義務の根拠

 では義務はどのように知られるのか。カントは義務の知られ方について、次のように考えている。物体が自然法則のもとにあるように、理性的存在者は道徳法則のもとにある。理性的存在者である私たちは道徳法則の存在に気付くことができる。ただし、私たちは完全な理性的存在者ではないので、感情や欲望に負けて道徳法則から逸脱することもある。そのため、道徳法則は強制的な「命法」のかたちで姿を現し、私たちに義務を告げるのである。

 およそ命法は、「仮言命法」と「定言命法」に分けられる。仮言命法とは、「もし…を実現しようと欲するなら…すべし」という何らかの目的を実現するための手段としての行為を命ずるものである。定言命法とは、いかなる条件もつけずに「…すべし」と命ずるものであり、これこそが道徳法則である。なぜなら、仮言命法の「べし」の拘束力は我々が適当な願望を持つということに依拠するわけだから、その願望を捨ててしまえば我々は容易にその拘束力から逃れることができるが、これに対して、道徳上の責務は我々が特定の願望を持つことに依拠するものではないからである。道徳上の要求はいかなる条件もつけづに「…すべし」と命ずるものであるから、「でも私はそんなことには興味ないから」と単にいうだけでは道徳上の要求から逃れられないのである。これが、先ほど挙げた「普遍化の定式」であり、その具体的な内容は先に挙げた通りである。

 そして、私たちが任意に設定する目的はすべて相対的なものであるが、いかなる条件もつけない定言命法が存在するというのであれば、目的自体として絶対的価値を持つようなもの、つまりその現存それ自体が価値を持つようなものがなければならない。そして、カントによれば、私たち理性的存在者こそが目的自体である。そしてこのことが定言命法の根拠なのである。そこで、定言命法の第一の定式、「普遍的法則の定式」は、第二の定式「目的自体の定式」として言いかえることができるのである。「目的自体の方式」の具体的な内容は先ほど挙げたとおりである。

 

義務論のまとめ

 ここで、次の義務論における社会適応の位置づけの問題に入る前に、その準備として、今まで述べたことを簡単にまとめることにする。義務論において行動を道徳的に価値あるものとするのは、「帰結」ではなく「動機」であり、義務のためになされた行為だけが正しい。これは、それ自体で善いものは善意志だけだからである。そして、義務とは、理性の事実であり、理性的存在者なら気づくことが可能である、一つの究極的道徳原理、定言命法に基づいた行動のことである。これは、すなわち「普遍的法則の定式」と、その根拠であり、「普遍的法則の定式」を言いかえたものでもある「目的自体の定式」に基づいた行為のことである。したがって、義務であるかどうかは、その行為の格率は普遍化可能かどうか、あるいは、その行為は人を「手段」ではなく「目的」として扱うものであるかを考えることによって判断できる。

 

義務論における社会適応の位置づけ

 社会適応は、義務になるのだろうか。社会適応をしないことは許容されることなのだろうか。その判断のためには、「社会適応をしない」ことが普遍的法則として意志できるかどうかを考えてみる必要があるだろう。これは普遍法則として意志できない。なぜなら、「社会適応をしない」ことが普遍法則となるとすると、社会が成り立たなくなるからである。逆に「社会適応をする」ということは普遍的法則として意志できるだろう。したがって、義務論において社会適応は狭義の義務である。そして、その根拠は理性の事実である定言命法が命じるものだからということになる

 

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1-3 徳倫理

 

 この節では、まず徳倫理の理論について①徳倫理の簡単な説明、②なぜ徳倫理では「人としての善さ(卓越)を重視するのか、③徳とはどのようなもので、なぜ善いとされるのか、④徳倫理の善さの概念の特徴、⑤徳倫理における正しさ、を説明する。次に、アリストテレスの徳倫理の内容を説明し、その中では社会適応はどのような位置づけになるかにつての私の見解を述べることとする。

 

徳倫理とは

徳倫理では、「人間の善とはなにか?」、「人を善い人(卓越した人)にするものは何か」と問うことで倫理に取り組む。そしてその答えを、称賛すべき性格特徴である徳に見いだした。徳倫理では「善い人(卓越した人)」になるためには徳を持つ必要があるとするのである。そして、「有徳であるとはどのような事か」という観点から、望ましい思考、感情、選択、振る舞いについて語っていく。このような立場が徳倫理と呼ばれる。徳倫理においては、「行為の正しさ」ではなく、「人としての善さ(卓越)」が中心問題なのである。

 

なぜ「人としてのよさ(卓越)」が道徳において重要だと考えるのか

そもそも近代の道徳哲学では、「なすべき正しいこととは何か?」を問う正しさと責務の理論が中心であるが、古代ではそうではなかった。アリストテレスは『二コマコス倫理学』(BC3225)において、人間の善とは徳と一致した霊魂の活動であるとし、多くの紙幅を割いて、「勇気」、「自制」、「気前のよさ」、「実直」といった個別の徳を、細部にまでわたる鋭い眼識を以って、論じている。倫理についてのこうした考え方はほとんどアリストテレスの独壇場であるが、しかし彼だけのものではない。ソクラテスもプラトンもその他多くの思想家たちもすべて、いかなる性格が人を善い人にするか?と問うことで倫理に取り組んだのである。その結果として、彼らの議論の中心を占めたのは様々な「徳」だった。つまり、倫理についての問いは、元々は「人としてのよさ(卓越)とは何か」という問いから始まったのである。その後この考え方は顧みられなくなり、徳の倫理は衰退していたが、アンスコムが我々は徳の倫理に戻るべきだと主張したことをきっかけに、現代の倫理学において徳倫理が復興を果たした。なお、現代の徳倫理学での徳には性格特徴だけでなく動機も含まれる。以下で、その衰退と復興の背景と、なぜ徳の倫理に戻るべきなのかの主張の内容を説明することとする。

まず、背景についてレイチェルズ(2003)の説明をもとに説明する。古代では徳が倫理の議論の中心であったが、時間がたつにつれ、この考え方は顧みられなくなった。キリスト教の到来によって、中世では道徳上の善とは神の意志への従属によるものであり、正しい生活とは神の命令に従うことによると考えられるようになったからである。ルネッサンス以降、道徳は再び世俗化し始め、神の法はその世俗版である道徳法(神の命令よりもむしろ人間の理性に端を発するとされるいかなる行動が正しいのかを示す諸々の規則の体系)に置き換えられた。それによれば、我々の義務とは、この法に従うこと、なのである。この考え方によって近代の道徳哲学者たちの倫理についての問いは「なすべき正しいこととは何か?」が中心になった。こうして徳の理論は衰退し、正しさと責務の理論が発達したのである。しかし、1958年にアンスコムが論文で、功利主義や義務論など近代の倫理理論の限界を批判し、我々は徳の理論に戻るべきだと主張したことをきっかけに、徳の理論が再び論じられるようなった。かくして、徳の理論が再び一大主流になったのである。

次に、なぜ徳の倫理に戻るべきなのかについての主張の内容についてであるが、ここでは、アンスコムとストッカーの主張について取りあげる。

アンスコムは、近代道徳哲学は立法者のいない「法」というつじつまの合わない概念に基づいているため誤っており、「責務」、「義務」そして「正しさ」という概念は、この無意味な考えと分かち難く結びついている。ゆえに我々は責務とか義務とか正しさについて考えるのはやめにして、徳の倫理に戻るべきだと主張した。

ストッカーの主張は、行為の正しさだけを強調する倫理理論は道徳生活について完全に満足のいく説明を与えてくれない、というものである。彼はそれを以下のような例を挙げて説明している。あなたは長患いで入院している。スミスはあなたの見舞いに来てくれる。あなたはうれしいと感じていて、スミスに、「君は本当にいい奴だ、わざわざ遠い街から僕に会いに来てくれるよい友人だよ」と、感謝の気持ちを述べた。ところがスミスは、自分は単に義務を果たしているだけだ、と抗議したのである。彼は見舞いに来たくて来ているのでもなければ、あなたに好意を持っているから来ているのでもない。「正しいことをする」ことが自分の義務だと思っているがゆえに見舞いに来ただけなのである。スミスの動機を知ればきっとあなたも非常にがっかりしてしまうだろう。我々は「友情」や「愛情」や「尊敬」に価値を認める。義務という抽象概念に基づいて行動すること、あるいは「正しいことをすること」への願望に基づいて行動することは、動機からそういった価値を排除してしまうのである。我々は、そのような動機だけに基づいて行動する人々の共同体には住みたくないだろうし、そうした人間にはなりたくないだろう。だから、「友情」や「愛情」などの価値を強調する倫理理論が必要になるのである。

 

徳とは何か

徳倫理においては徳が重要だと最初に述べた。では、徳にはどのようなものがあるのだろうか。徳にはさまざまなものがあり、それらを集めた目録も一つではない。レイチェルズ(2003)は徳の部分的な一覧表として、「慈善、公正、理性的、丁寧、親しみ、自信、同情、気前のよさ、自制、良心、正直、自律、協調、勤勉、自立、勇気、正義、如才なさ、慇懃、誠実、思慮、頼りがい、節度、寛容」を挙げている。

 

 

徳はなぜ善いのか

では、なぜ徳は称賛すべき善いものなのであろうか。レイチェルズ(2003)によれば、その答えは、問題となっているそれぞれの徳によって様々である。レイチェルズ(2003)は、そのことについて、アリストテレスが挙げている徳のうち、勇気、気前のよさ、正直、誠実を例にあげて、以下のように説明している。

‐「勇気」がよいのは、人生は危険に満ちていて、「勇気」なしではそれらに対処できそうにないからである。

‐「気前のよさ」が望ましいのは、ある人々は必然的にほかの人々よりも困っており、援助を必要とするからである

‐「正直」が必要なのは、「正直」がなければ人間同士の関係はいろいろと悪くなるからである。

‐「誠実」は友情の本質である。友人たちは袂を分かったほうがいいと思われる場合でも、一緒にいるものである。

この表のように、おのおのの徳は異なる理由により価値があるのである。

 

徳倫理における善さの概念の特徴

赤林(2007)によれば、徳倫理における善さの概念には、いくつかの特徴がある。それについての赤林(2007)の説明をまとめると以下のようになる。

 

(1) 善の多元性

徳(性格特徴や動機)は複数存在するが、個々の徳は、何か一つの価値へと還元することができない仕方で価値を持っている。たとえば誠実や友情のもつ価値は功利性(効用)という価値に還元することはできないし、功利性(効用)を実現するための手段として価値があるとみなされるわけではない。いずれの徳も、それ自体において私が選択するに値するものなのである。

(2) 善の客観性

また、個々の徳の善さは、われわれがそれを所有したいと欲するかどうかと無関係に決まる。その徳を欲しない人がもっている場合でさえ、徳としてみなされる。要するに、徳の善さは、何かを実現したり快をもたらしたりするという結果によって決まる訳ではない。行為者が徳を所有し発揮することそれ自体のうちに善さがあるのである。

(3) 善の行為者相対性

善さの概念には、もう一つ重要な特徴がある。善の中には行為者に相対的なものがある。たとえば友情のもつ価値は行為者相対的である。私と親友との関係は、私と他の人々との交友関係よりも、あるいはほかの人々同士の交友関係よりも、私にとって重要である(他の人にとってはそうではないかもしれない)というようなことである。徳倫理は、価値が不偏不党なものであるとは考えない。

 

徳倫理における正しさ

 最初に、徳倫理においては「行為の正しさ」ではなく、「人としての善さ(卓越)」が中心問題であると述べたが、その徳倫理では「行為の正しさ」についてはどのように考えているのだろうか。この答えに関しては以下のような立場がある。

 

(1) 徳(性格特徴や動機)に言及することによって、行為の正しさは評価できるとする立場

この立場では、徳倫理は行為の良し悪しだけでなく、行為そのものの正しさ・不正についても説明することができるとし、行為者の徳(性格特徴や動機)に言及することによって、行為の正しさを評価しようとする。すぐれた行為者論(ある行為が正しいのは、それが、有徳な行為者がその状況においてふさわしい仕方でふるまうことと一致する場面であり、その場面に限る)や、動機中心理論(ある行為が正しいのは、それが立派な動機からなされ、そのような動機を反映あるいはあらわしている場合であり、その場合に限る)などがある。

 

(2) 正・不正の判断は徳に基づくが、判断基準の体系化は不可能だとする立場

この立場では、正・不正の判断は本来複雑なものであり、徳を学べばできるものではなく、実践によって徳を身につけたものだけができるが、有徳な行為者が判断する際に行っている微妙な考察を一般的な原理によって説明することはできない、とする。

 

(3) 「正しい」や「するべきである」といった概念は捨てるべきだとする立場

これは先に例に挙げたアンスコムなどの立場であり、我々は「道徳的に正しい行動」といった概念を捨てるべきだ、とする立場である。もちろん我々はその場合でも、あるふるまいをより良いとかより悪いとかいうであろうが、徳関係の単語に由来する言葉を使えばいいのである。私たちは人生の諸々の領域における思考や選択に関して、諸々の徳を語ることができる。そして、徳の完全な一組は人間としての規範を表していると考えることができるのである。

 

以上の立場に共通するのは、徳の概念が根本的であるという点である。そして、正・不正についても説明できるとする立場においても、「善さの概念が第一のものであり、正しさの概念は、善さと関連付けることにおいてのみ定義される。何が価値あるもので善いものであるかということを決めない限り何が行為を正しいとするかについて説明はできないのである」。

 

徳倫理における社会適応の位置づけ

 徳倫理といっても、具体的な内容は各哲学者によって異なる。したがって、ここでは、アリストテレスの徳倫理では社会適応はどのような位置づけになるかを考えることにする。

そのために、まず、アリストテレスの徳についての考えを彼の著書である『二コマコス倫理学』とそれに関する中央大学での講義のハングアウトから簡単に説明する。アリストテレスは本書の中で非常に多くのことを述べているが、今回の目的は社会適応がどのような位置づけになるのかを探ることであるから、その目的に私が必要だと判断した部分だけ、つまりアリストテレスが本書で述べていることの一部だけを取りあげる。次に、それをもとに、アリストテレスの徳倫理では社会適応はどのような位置づけになるかについての私の見解を述べる。

 

 アリストテレスはあらゆる技術、研究、行為、選択は何か善いもの・ことを目的として目指すと考えた。そして、その目的は、より上位の目的へとさかのぼることができる。例えば、「よい馬勒(馬具の一つ)を作る」のは「よい乗馬」のため、「よい乗馬」は「勝利」のため、「勝利」は「ポリスの善」のため、といったようにである。そしてそれ以上の目的が存在しないような、究極の目的、すなわち人間にとっての最高善は幸福であると考えた。ここでいう幸福が意味するものは、功利主義で言うような、快楽のことではないし、現代使うような意味での幸福感のことでもない。アリストテレスの言う幸福とは、「人間に固有な機能をよく発現させること」、すなわち、「完全な徳に基づく魂の活動」である。そして、徳とは、「人間を善きものにするところの、そして人間に自分自身の機能をよく行わせるところの状態」である。徳には、思考に関する徳である「知性的徳」と性格に関する徳である「倫理的徳」の二つがあり、知性徳は教育によって、倫理的徳は習慣づけによって形成される。アリストテレスは本書の中で、勇気、気前のよさ、正直、誠実など様々な徳を挙げているが、こうした徳を、自分自身に関してだけでなく、他人との関わり、すなわち共同体において動かすことによって「完全な徳(終局的な徳の完成)」になると述べている。したがって、自然本性的にポリス的である人間の、人間としての限りでの徳の完成は、終局的にはポリス的正義(=倫理的徳のすべて。徳と同じ範囲に妥当する基準)の実現、つまり「善い市民」になること以外に見い出され得ないのである。

 

上記のアリストテレスの考えからすれば、アリストテレスの徳倫理では、社会適応は人間の自然本性に根差した行為規範(要請される行為)であると言えるだろう。つまり、人間として善く生きるためには社会適応をする必要があるのである。そして、単に社会適応をすればよいということではなく、その際、社会適応において、人間としての社会的な自然本性を「よく」発揮することが重要なのである。