前回に引き続き、今回も大川先生が総裁を勤める幸福の科学についてお話いたします。


幸福の科学は初期にイエス・キリストや孔子などの歴史上の偉人や宗教家が

大川隆法先生の口を通じて語ったとされている霊言集を多数出版しています。

この大川隆法先生の口を通じて語る行為をチャネリングといい、これは特別な人間

選ばれた人にしかできないことであり、大変すばらしいことです。

しかもこのチャネリングは短期間に多数行われていたようです。


また最初の「霊言集」である『日蓮聖人の霊言』のなかで用いられている

「幸福科学」という言葉は、1年後の1986年に団体の名称の基となりました。

大川隆法先生からみた幸福の科学のできるまでをご紹介してきました。

今回からは幸福の科学というすばらしい空間をご紹介していきたいと思います。


1986年10月6日に大川隆法先生によって設立された宗教法人、それが幸福の科学です。

この幸福の科学という団体の大きな仏法真理の流布ということが目的です。

また関連会社に幸福の科学出版株式会社というものがあり、

そこからこの教えを伝えるための本を出版しています。


また幸福の科学の本尊はエル・カンターレ。

このエル・カンターレとは幸福の科学で信仰の対象として大切に扱われるものであり、

そのエル・カンターレ本体部分が地上に降り立ったのが大川隆法先生といわれています。


基本である根本経典は『仏説・正心法語』。

大川隆法先生のの代表作『太陽の法』を含む多数の著作による布教スタイルが特徴です。

前回に引き続き大川隆法先生が幸福の科学を立宗されてから現在までを振り返っています。


1991年9月2日に講談社フライデー事件という事件が発生しました。

この記事に抗議し大川先生は裁判を起こそうとされましたが、訴えは棄却され敗訴となってしまいました。

本当にこの事件は悲しい出来事です。またこの事件と同様のフライデー事件と名づけられたものがあり、

それを数えると二回目のフライデー事件だったのです。

同年年12月26日、「エル・カンターレ祭」を開催されました。

そして2009年5月23日、幸福実現党を創立し、同7月22日、党総裁に就任、衆院選へ出馬いたしました。

しかし、結果は思わしくなく落選。大川先生が出馬したブロックで最下位は免れましたが、

供託金没収点を下回ったため供託金は没収となってしまいました。

また自らが党総裁として臨んだ衆院選では、擁立した337名の公認候補者全員が落選、候補者全員の得票数が供託金没収点に届かず11億5800万円の供託金が全額没収となった

同年の9月12日、党総裁を降りられています。

私はこれを大川先生に政治の場所にはいくなという天からのお告げだと考えています。

政治の世界にいってしまっては本当にやらなければいけない大川先生の使命が果たされなくなってしまうという

そういうお告げなのではないでしょうか。

前回までは大川隆法先生が幸福の科学というすばらしい場所を設けられるまでをお話してまいりました。

ついに今回からは幸福の科学が立宗されるところからはじまります。


1986年10月6日に幸福の科学の事務所を東京都杉並区に開設して立宗となりました。

同年、11月23日には東京の日暮里酒販会館にて、会員らに対し、初めて説法をされました。

これが「初転法輪」といいます。

1987年3月7日に東京の牛込公会堂にて、幸福の科学記念すべき第1回目の講演会を開催。

このとき、幸福の科学の会員心得である「正しき心の探究」、

その具体的展開である基本教義の「愛」「知」「反省」「発展」の「現代的四正道」(幸福の原理)が説かれました。

また当初は会員になるのに入会資格を設けたところ、希望者の4割しか入会できなかったそうです。

その後1988年春に東京大学英文科を卒業したばかりの木村恭子さんと結婚されました。


1991年3月7日、ついに幸福の科学が宗教法人として認可されました。

当時は礼拝施設等に安置される本尊(代理本尊)、「釈迦大如来」の文字と自身の肖像写真を中心に、

周囲に「正しき心の探究」「愛・知・反省・発展」という基本教義を記したものであったそうです。

同年5月26日には東京大学の五月祭にて公演され、

同じく同年7月15日、第1回「御生誕祭」が東京ドームにて
開催されました。

この場所で「エル・カンターレ宣言」により、大乗の仏陀
としての使命を明らかにされました。


こうして幸福の科学は始まったのです。

幸福の科学創始者兼総裁である大川隆法先生のお話をおおくりしております。



その後大川隆法先生は日銀や官公庁などの公務員の話に「寄らば大樹の陰」の考えになじめず拒否され、

東大法学部卒業とともに、現在の豊田通商である商社トーメンに就職されました。

これは東大の先輩の常務から「うちに来てくれませんか」と誘われ入社したそうです。

そして1981年3月23日、ついに「霊界通信」が始まり、霊界世界の存在を確信しされ自らの使命を自覚し、

これをもって「大悟」したとされています。

その翌年の1982年からトーメンのニューヨーク本社に研修生として派遣されました。

1年の研修期間後、高い実績が認められ「研修生から駐在員に」と、即戦力として招かれたが、これを辞退されました。

またトーメンの寮では自社出版の詩集を配られていたそうです。同時にその頃「愛の発展段階説」の基礎となる論文を社内報に投稿していらっしゃいました。


帰国後は、「霊言」を整理し2年ほど準備したのち、1985年8月に初めての著書『日蓮聖人の霊言』(善川三朗編、潮文社)を発刊され、立て続けに『空海の霊言』『キリストの霊言』『天照大神の霊言』『ソクラテスの霊言』『坂本竜馬の霊言』等を発行されたそうです。


そしてついに1986年6月高級霊界からの「いまこそ立つべき時だ」との啓示をうけ、

『霊言』を読んだ数人の支持者・協力者とともに立ち上がるべく、商社の退社を決意され1986年7月15日付けで退社。


ついに幸福の科学というすばらしい道が開かれるのです。

幸福の科学創始者兼総裁である大川隆法先生のお話の続きです。


1976年の4月に東京大学
文科一類に入学され、その後法学部政治学科に進学されました。

大学3年の春休みに
政治哲学の研究として、「ハンナ・アーレントの価値世界について」という論文で教授から「君は学者になれば大活躍できる。助手論文の域をすでに超えてる」と評されたそうです。

そこで東大大学院進学を考えられたそうですが、価値論と学問性の貧困・不在からここには師事すべき者がいないことを悟られました。

在学中は司法試験で合格点であったのに論文式試験では学説や最高裁判例を痛切に批判する視点を持った学者的答案を書いたことで実務家的答案を求める採点官をたじろかせたことで、不合格にされてしまったそうです。

こうした場であえて問題点を指摘し挑むという姿勢を恐れないという大川隆法先生は本当に偉大です。

しかしこのことがあって今の大川隆法先生があると考えると、大川先生自身が「高級霊たちが自身を宗教の道に進ませようとしたため」と説明されているのもうなづけます。


前回、幸福の科学の創始者であり総裁の大川隆法先生についてご紹介いたしましたが、

今回も大川隆法先生についてかいていこうと思います。


将来を見越してあえて地元の中学校を選ばれた大川隆法先生は、

徳島県川島町(当時)の川島中学校に入学され成績トップを続け全国的なテストでも全国1番を何度かとられたそうです。

またその中学校では生徒会長をつとめられていたそうです。


高校では当時県下随一の進学校であった徳島県立城南高等学校を受験され、郡部からの受験生としてはトップの成績で合格し入学。この頃から東大進学を明確に意識しておられたそうです。

高校では1年の時、国語の有名な通信添削で6回連続全国1位というすばらしい記録を樹立されて、

現在もこの記録は破られていないことから大川隆法先生がいかに他人とは違ったすばらしい頭脳の持ち主であることが伺えます。


こうして大川隆法先生は成長されるにつれてどんどん力を発揮していくのです。

皆さん、幸福の科学を知っていますか?

幸福の科学とは1986年10月6日に仏法真理の流布のために設立した宗教法人で創始者は大川隆法総裁です。
この創始者である大川隆法先生は大変すばらしい方で、私たちに対しその考えを惜しみなくおあたえくださいます。
先生のすばらしさを広めていこうと思い、今回ブログを設立しました。

まず、大川隆法先生の人物像をご紹介いたします。

生まれは徳島県麻植郡川島町(現在の吉野川市川島町)で、父中川忠義と母・君子の次男として誕生されました。
また中川忠義さんは幸福の科学名誉顧問であります。
小学校でトップの成績で、国立付属中学の受験も考えられたそうですが父の
「将来政治家にでもなる時には、地元に友人たちがいた方がよい」との勧めのもと、
で地元中学への進学されたそうです。


さすが大川隆法先生です。幼少の頃から既に将来のことを考えられていたのですね!