文化祭のポスターを抱え、廊下を歩いていく。
もう8時に近いこの学校は、人が少ない。
いつもに比べて少ないという意味。
決して多くはないけれどわずかというわけでもない。
そう、どの教室も電気がついているのだ。
そして、声が聞こえる。
少しずつの声がたくさん集まって、学校自体が声を発している。
明日の文化祭に向けて、盛り上がっているのだ。
古い校舎が、古い校舎に住むあたし達が。
響く足音を気にして、足を止める。
けれど、足音は響いたままだった。
幽霊の存在を信じているわけではない、
けれど、背筋にぞくりと冷たいものが通る気がした。
なるべくゆっくり、そう、決定的なものは見ないように。
振り向いたら、そこには、三浦リノが立っていた。
(立っていたというよりは歩いていたのだけれど)
一瞬でも幽霊を信じてしまった自分を笑いながら、リノに笑いかける。
彼女は力なく微笑み、あたしに会釈を返した。
「リノ、何やってるの?」
こうやって聞いておきながら、大概の予想は付いていた。
そこまであたしは鈍くない。
それは彼女も承知しているのだろう。
あたしと目を合わせてはくれなかった。
「・・・先輩、こそ」
無理やり笑おうとしているのが、よくわかる。
「あたしはね、ほら、生徒会」
先ほどまで、この古い校舎が声を発しているかのように盛り上がっていたのに。
リノを目の前にしては、やたらに重い沈黙が回りを流れるだけだった。
彼女の黒髪と、黒目がちな端整な顔立ちを目の前にして。
物怖じして、だんまりと口を噤んでいるようだった。
三浦リノにはそんな、雰囲気がある。
一言で言えば、高嶺の花だ。
あたしの男友達に自慢したら、周りはどんな反応をするだろう。
(マジで?お前、ミウラリノと知り合い?じゃあ紹介してよ)
これがたいていの反応だろう。
リノに近づくと、彼女はゆっくり笑った。
「ねえ、先輩」
あたしが「ねえ、リノ」と声をかけたのとまったく同時だった。
それでもリノは先輩であるあたしに遠慮する節もなく、言葉を続ける。
腕に力が入って、文化祭のポスターがつぶれる音を聞いた。
「三浦リノって、存在しないほうがいいのかなあ」
独り言のように呟かれたその言葉はすぐに消えていった。
目の前を通り過ぎていった虫がその言葉を運んでいったように。
開けっ放しの廊下の窓から、光を求めて虫がやってくるのだ。
リノの細い指は、スカートのプリーツを握り締めていた。
あたしはどうすることも出来ずに少しだけ首を振った。
リノの言葉に首をふったのではなくて。
邪魔な髪の毛を振り払うために。
リノはあたしの目を見てはいない。
「・・・明日の文化祭、3Aは演劇をやんの」
1分かけてようやく出た言葉はこれだけだった。
つぶれたポスターを広げて、リノに手渡す。
彼女は目を見開いた後、
「知ってますよ、先輩主役でしょう?応援してます」
口に手を当てながら優しく笑っていた。
「リノ、明日はあたしの勇姿、絶対見ないと損するからね」
あたしの冗談交じりの一言は、「失礼します」の一言でかき消された。
ペタペタと小走りに走るリノの後姿を見送る。
背が小さく、顔の小さいリノはすぐに小さくなって消えた。
リノが走り去ったあとは、もう一度ざわめきが取り戻された。
そっと明るい教室を覗いたら、初々しく微笑む後輩達が手を振ってくれた。
「花村先輩。俺たち明日の演劇ちゃんと見ますから」
そういってくれたのはきっと、同じ部活の子たちだろう。
名前はその中の数人しかわからなかった。
それでも笑顔を向けてくれる後輩に微笑み返す。
「たぶんみんな、あたしに惚れるよ?」
そうして、手を振って、あたしは廊下を歩き始めた。
教室の中から笑う声が聞こえて、一人で笑ってしまった。
それでも、なんとなく、意識はぼんやりとしていた。
三浦リノは、明日の文化祭には来ないだろう。
あたしは、人の涙をみたのだ。
耐え切れずに流れ落ちる涙。
声を抑えながら、それでも止めきれず喉を鳴らして。
映画のワンシーンみたいに静な涙なんかじゃあないだろう。
背中越しに見える涙は、とても綺麗で残酷だった。
きっと三浦リノはあたしのポスターを涙で破くのだろう。
ポスターをなくして、何となく違和感の残る腕を気にして廊下を歩いた。
一つの教室から「ばいばーい」そんな声がする。
真っ暗な窓の外をみて、そっと携帯を開いて時間を見た。
まぶしいライトが目をちかちかさせる。
バスの時間までもう、10分しかない。
今から教室に鞄を取りにいったとして、
ここからバス停まで8分で間に合うだろうか。
脱げそうなスリッパをきつく履いて、あたしは廊下を走った。
途中ですれ違った男の子の香水の匂いが鼻につく。
三浦リノの香水と同じ香水だ。
三浦リノ。
あの子の右腕の痣とスリッパを履いていないこと、瞼がはれていること。
全部全部、全部。気づかない振りをした。
おわり。