嘘も方便と言われます。


本当に大事な必要である事ならば

それを成し得る為の行い手段の行使は、厭うべきではない。と考えることではなかろうかと思う訳であります。



たとえば、食べる為には生き物から栄養血肉を分けて貰わねばならない。



ですが、その手段に高じて

無闇に生き物の命に対する尊厳を

損ねる行いとは、いかがなもので

あろうかとする。



あくまでも、生きる為に必要な分だけを、戴く為ならば止むを得ず行使するに必要な行為の筈として、それも方便上仕方なきことであるとの理解にも及ぶものであろう。




性に付いても、異性遊びに耽り欲が高じ赴くままを、体現し溺れる為にあるとは果たして言えないのである。


必要な時なら、健康的に日々送る為に大切であると言えば、よく分かると思うが、おかしなことでなく、人間として、個人にも当然的ことなのです。



その為の手段に高じ、欲望に溺れていくようなこと自体を普通ならば控えるものだし、


もし異性問題になると考えられる時には、きっと性行為の本質を、頭体ごと誤っているに違いないのである。




目的を適えるに手段はあり

必要な訳なだけであると考え


その方便でもある筈の行いも

行き過ぎ溺れる様な事があっても

為らないと見る訳なのです。




お金にも、買い物は生きる為に行う、

その為に使うお金が要るから


これは手段に相当する。



しかし、買い占める事に味占めて


買えるだけ、お金の続く限り

買い占めると考え、どんどんと見境無くし物買う事に奔走慣れ果てるとか



その場合にも、自分の金銭感覚や対するお金依存と、その中毒性に付いては考え、今一度行いに自身を振り返るよう頃合い見計らう方がいいのかも知れない。




人間は生きて、生営むが故の方便術には、ある種、余念がないものとも考え得る。



人間関係でも相手を傷付けぬ為にか、

嘘でも方便的な施術に義理的心情を毎回添え返すともしますし、


言葉から、整髪身なり服装などに、世渡りの為に行う事には、どれにも方便的意義合いがないとは言い切れません。



策士策に溺れるとは、また意味合いの違いとはあるが、時に幸せに、健全に、貢献的に世渡り生きる為の必要な、方便事が、


手段に溺れるように、本題からは越えた逸脱を適えて終うから困る。また、そこから人間破綻の前線的位置にと、踊り出るという失態ものを演じ易いと言え、



この点、中毒気質にと陥らぬよう

自戒の意を要することもあるという

ことである。