気持ち言葉、心と言うものには
肉体を伴わせずに
別に側にはなくとも
自身に取り込める所は有るのでは
と思うのですが。
人間として、誰かの存在を必要とした時は、必ずしも、物理的に側近くに在らねば、何時も居なければとか、射止めねば等と言う事でもないと思う。
よく、今は亡き者との対話に見られる、スピリチュアル的な霊的交信など
に因る著作物等ありますけれども
物理的肉体は滅び、そこには既にもう無いとは言えても、その人の語る、言葉理想、思いの数々は、今に、知り紐解いて、受け継いでいく事は可能だと言えるんです。
それらは、時空を越え、尚現代にと引き継がれているからとも呼べるからです。
言葉や思想と言えるものには、時空的概枠の制約を越える、人々の記憶の中で生き続けるものあろうと考えられるのです。
価値ある言葉や至言銘訓は、時代が幾重進行しても廃れずに心に残り、我が胸中万人の為の生への指針にとなることでしょう。
たとえば、心して一冊の本を読むと言うことは、その著書からの教えを通した、自己対話から刷新をも可能にしてくれます。
この世にもういない、だけどそういう人の本等を読むことからも、いつでも大切な事を学びとることはできる。
言葉思想や哲理、芸術と呼べるもの等、良いものを自己吸収出来ると、その著書から、大切なものは、何時でも学知する事が可能です。
敬愛する何方かに付いても、言えることは同様にも感じられます。
何時も側にと居る様に望まずとも、その人との過去や言葉等、学び得るそうした数々思い出事象と言うものが、心には残っているものだ。
それらを折に触れては、
想い出に呼び覚ます事もできる。
よく故人を偲ぶともされますが
それを甦らせるとは、そこにない相手とも対話をどこかで適えられている。
生者故人の云われ問わず、何時でも大切なことは、その言葉内容を拝借し、自己対話を可能とする。
先程、読書とは著者の教えを通じた、自己対話だと伝えた。
物理的な肉体的存在には因らずに、そして、相手の残したる心ある言葉思想の、それらを抱き、思い随所に思索深まる時、たとえ一言一句でも、通念する相手との自己に因る対話に於いて、価値あるものの成立が為されたとは言えまいか。
人間にはあるにせよ、肉体的次元を越えた所のものに因み、縁繋がりと呼べし、廃れぬ想いとは誰にも有るものとし、
そうした部分に存在意義としての確かさを見出しながらも生を捧ぐ者。それもまた人間なのだと言える事でありましょう。