少年草子

少年草子

ふと、皆が貧しかった日本の終戦前後に少年期を過ごした私自身の思い出の風景を綴ってみようと、ブログを始める気になった。亡き妻を相手に雑談をするくらいの気軽な雑記帳と捉えていただければ幸いである。

かつての日本にはこういう時代もあった。
無闇に戦争を美化する事も、狂ったように日本を卑下する事も、国や歴史や人間の真実を探求する事にはならない。
私はただ心の風景を書き連ねるのみである。
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10月初めの頃、父の勤務先の同僚の1人が私の田んぼの稲刈りの為に、日曜日を利用して加勢に来てくれた。

昼の食事に母は気を使って客人の1人分だけ、真っ白な米を炊(た)いて手伝いの御礼にと振る舞った。
私たち家族の方はいつもの米、麦、大根の混合メシを食べていた。

その時の私の関心はただ一つ、客人の食べている《白いご飯》だった。

何年も口に入れていない真っ白い飯をもう一度だけ食べてみたい………そう思いながらも、どうしても『食べたい。』とは言い出せず、かと言って食卓から離れる事も出来ず、ひたすらに大根メシを異常にお代わりするしかなかった。

母も私のお代わりの多さを不審に思ったのか、「お前も白いご飯が欲しいのかい?」と尋(たず)ねたので、私は素直に大きく頷(うなず)いた。



やがて待望の真っ白い飯が茶碗イッパイに盛られ、自分の手中におさまった時には、本当に夢見心地の気分だった。が、皮肉なことに子供の私の小さな腹は大根メシで既(すで)に満腹状態で、食べたい気持ちはあってもふた口を頬張(ほおば)るくらいがせいぜいで、当時は心底悔しい思いをしたものだ。

………戦中戦後の食べ盛りの私にとって、学業などは二の次で、《食べる》という事が何よりの関心事だった。

午後にも授業があるという日、マトモな昼食弁当を持ってこれる生徒はごく僅(わず)かで、サツマイモの蒸(ふ)かしたもの等を代用していた私などは、まだ恵まれている方だった。

その他の、弁当を持たない生徒はソッと教室を出て、水道水でお腹を満たしていたようだ。

私のような農家の子供は、朝昼晩、米にはありつけなくとも、何らかの代用食はある。これは農家である事の有り難い点だ。少なくとも、三食ともに何も食べていないという追い詰められた状況になる事はなかった。


★★★★★……………


8月15日の終戦以降、各家々には父親や息子たちなど、帰還兵が次々に迎えられ、喜びの声も沢山聞かれたが、既(すで)に戦死の知らせを受け取っていた世帯も当然多く、複雑な思いで他者の家の無事の帰還を祝っての挨拶(あいさつ)に向かわねばならない悲しみを背負った大人達の義理の務めの姿には、現実を耐え抜かなければならぬ厳しさを感じたものだ。

抑留(よくりゅう)先での死亡も含め、太平洋戦争における日本の戦死者数は200万人以上、帰国した軍人·軍属(ぐんぞく→軍隊構成員であって軍人以外の者で、軍隊の認可を得て軍隊に随伴する者を含む。旧日本軍においては陸海軍の勤務に従事する者の総称。)は凡(およ)そ310万人、民間人は318万人………

戦争中の日本全土の農家は男性不足で、各農産物の収穫量は想像以上の潰滅(かいめつ)状態にあり、戦後になっても食料事情は最悪のままであった。


………11月末の夕方の事である。

見知らぬ小学生の男の子と母親との二人連れが突然、我が家にやって来た。

「今晩の、私たち家族が食べる芋を売ってください………家には何も無いのです。○○の町から来ました。子供三人が私たちの帰りを待っているのです。」

米、麦、芋などの農作物の勝手な売買は食料統制上、法律で禁止されており、売った農家も罰せられ、買った方も全ての物資を没収されてしまうので、目立つ昼間を避けて夕刻を待って訪問してきたのだった。

近隣の農家の中でも最小である我が家には、売りに出せるほどの余裕も無かったのだが、サツマイモくらいなら自分達で食べる量を減らせば何とかなるでしょうなどと母親同士の話し合いがついて、床下の芋床からカゴに食料を盛って分量を計ったりしている間の約20~30分、家の奥にあるカマドの火に、小3の私と、母親達のやり取りを待つ小4の彼が二人並んで手足を温めていた。



………同じ方向を見つめながら、二人とも無言のままだった。

しばらくすると、彼は突然に上半身を自分の母親のいる方向に向け、声をかけた。

「かあちゃん、金はまだあるか?」

そんな懐具合(ふところぐあい)を心配する我が息子に対し、母親は涙声で応えるのみだった。

「お前はそんな事、心配せんでいい………」

同じ方向を向いて並んで座っていても、心の中では全く違う思いであった事に、私は不思議な感覚を覚えたものだ。

彼らが住むという町の中心部から私の家までは距離にして約8キロ。

今日はたまたま縁があったわけだが、毎日が買い出しの方向の定まらぬまま、生き抜くための食料調達に明日も明後日も日々を費(つい)やす事になるのだろう。

バスや車を走らせるガソリン油も不足し、街中の食料品店などは売る商品すらも無い開店休業状態で、あの親子だけではない、日本の庶民の大半が飢えの一歩手前であり、日々食べるための戦いの毎日だったのである。


………「かあちゃん、金はまだあるか?」


あの親子には、その後、会った事は無い。

あれから70年近く経(た)ってしまったが、可能であるならもう一度会ってみたいのが、あの時の少年である。

彼は私の事などは覚えていないだろうが、しかし、母親と一緒に家族のために食料調達に歩き続けるその逞(たくま)しさと、『金はまだあるか?』と問いかけるその切実な姿は、いつまでも私の心を捉(とら)えて離さないのである。


………親子は各々(おのおの)のリュックサックにサツマイモを分け合って、今から大きな坂道が三つもある8キロの道を歩いて帰らねばならない。
さらに難関なのは、途中、警察の取り締まりに会わないようにする事だ。
見つかれば即、没収である。

売り主である私達家族はその事を心配して、夜遅くまであの親子の話をしながら無事の帰宅を祈る思いであった………。


★★★★★………………


私が小4の頃に出会った、二歳年下の男の子がいた。

彼は他府県より転入し、朝の登校時には私もよく一緒に同行する事が多かった。

その子は小柄(こがら)ながらお腹だけはバレーボールのように大きくて、手足は箸(はし)のように痩(や)せ細っている。

そのような体型が栄養失調の症状だとは当時は知らず、単に不思議な体格の子だな、という認識でしかなかった。


人間の血管はたんぱく質で出来ており、たんぱく質が減少すると血管が脆(もろ)くなって、血管内に水分を維持する事が出来なくなり、胃にすべて流れてお腹に水分が溜(た)まり膨(ふく)らんでしまう………このような栄養失調による症状の事を「クワシオルコル病」と呼ぶ。




………やがて、その子の朝の登校も無くなり、姿が全く見えなくなった事に疑問を抱いてたのだが、数ヵ月後に彼は亡くなったと聞かされた。

大人達で何とか手のうちようが無かったのかと腹ただしい気持ちになると同時に、自分の無力さ加減に無念の思いでいっぱいであった。

腹イッパイにモノが食べられるという事の、その真の幸せの意味は、食べれなかった経験者以外の者に伝える事は中々難しい。


美味しいから食べるのではない。
生きていくために食べるのである。

………そういう時代がかつての日本にはあったのだ。