もうすぐ、でもないが、半年後。
後、半年のすれば、新・小学一年生に向けた、様々な
宣伝がなされてくるだろう。
ランドセル業界では、既にコマーシャルを放映してる。
一寸早いような気もするが、雑誌業界・塾業界も負けてはいまい。
「入学おめでとう」
嬉しい気持ちをまず、褒め称え、「さぁ、この雑誌を」「我が塾へ」と
誘いを掛けるわけである。
「将を射すんとすれば」
というから、まず馬からの戦略もあるか。当然、馬は親である。
が、わたしの場合、「嬉しい」どころか「とほほ」な気持ち。
嬉しさ半分、とほほさ半分で、小学校に入ったのだ。
プロフィールにも書いたけど、昭和40年代後半は、まさに怒涛だらけ
だったように思う。
45年の大阪万博。
47年、上野にパンダがやって来て、翌、48年。
第一次石油ショックがあった。
間の46、7、8年あたりは、あさま山荘事件が勃発。
今でも時折、重信房子がどうのこうのと話題になるが、
石油ショックに、この事件が、文字通りコールターのように絡み絡み、
人々を不安に陥れていたのである。
そんな時代の最中に、わたしもひとつの、節目を迎えた。
幼稚園を卒業、小学校へあがる年齢となったのである。
しかし、どういうわけであろうか?
小学校へあがるのを、さほど喜ばない子供であった。
古臭い校舎の印象や、難しそうな勉強。
知らない大人、曰く、先生という大人に毎日、会わなければならない苦痛。
その他諸々が、げんなりさせてきたのである。
(いかなくてすむ方法は、いかなくて済む方法は)
ないか、ないかと日々是、探し廻っていたのだ。
「もうすぐ、学校だね。楽しみだね」
「うん」
同調を求められると、一応は「うん」といったけど、どうでもいいような所ですらあった。
そんなある日。いひひと思い立ったのだ。
(どうやら世間は、石油がなくなると騒いでいる)
石油から紙ができることぐらいは、分かっていた。
「紙がなくなる、紙がなくなる」
トイレットペーパー、トイレットペーパーと、母親が毎日、大騒ぎをしているのである。
(石油から紙、、、)
と、一挙に頭が冴えまくった。
(紙がなくなる→教科書・ノートhが作れない→教科書・ノートが作れない→学校へいっても
授業ができない→授業ができない→学校へ行っても仕方がない→学校へいかなくていい)
やったぁ!
六歳児にして、この発想の豊かさは、まさに神業というべきだ。
本当に、わたしは当時、信じていた。
学校へゆかなきてもいい。
今まで通りに、毎日、好きなだけテレビを見られる生活ができるんだ、と。
子供番組、カラーテレビまんが(アニメです)が当時は花盛り。
花盛りの世界に埋もれ、夢見る子供であったのだ。
石油ショックのごたごたは案外、長く掛かっていた。
幼稚園の卒業してからも、」まだごたごたが続いていて、いよいよかと思われた。
が、んがである。
小学校入学を控えた、ホンの寸前。
3月の下旬あたりに、事なきを得る結果となったのだ。
(くっそぉ~っ!!!)
大人はみんな大喜びであったけど、ひとりわたしは違っていた。
夢見る子供は、夢より現実を知らされてしまったのだ。
全く「とほほ」なものである。
しかし、あの時、石油がなくならないで良かったですなぁ。