∂音と言葉 | 808someting2loveのブログ

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∂音と言葉

 

 

∂指揮者がオーケストラの楽員に最初に与えるテンポは、たいていは上拍から始まる。フルトヴェングラーは、下拍から始めた。
 こんなことはそれまで誰もしていなかったことだった。この愛想のない指揮者はそこから“神格”とか“神韻渺々”ともいうべき指揮像をつくりあげる。
 知識よりも情緒が音楽を響かせていることを、全体よりも細部が音楽をつくるという“哲学”で伝えたかったから。トスカニーニなら、ぴったり揃ったユニゾンをつくってオーケストレーションの基盤にしたところを、フルトヴェングラーはまるで楽員の心の不安をうけとめるかのように下拍を鳴らさせたのである。
 ウィーン・フィルのオットー・シュトラッサーがベートーヴェンの『英雄』を回顧するに、「驚いたことに、最初のたった二つの和音を演奏するだけで、これまで聞いたこともない音楽が始まるのです」とはそのこと。


フルトヴェングラーは、ベートーヴェンの演奏には「音の言葉」と「魂の言葉」の両方の「間の」合一が必要なのです。
フルトヴェングラーは、それを時代の流行や大衆の好みに合わせてはならないと言う。決定的なのはワーグナーである。ワーグナーには音楽を超えた総合がいる
 それは、ブラームスにおいて内部に浸透したもののすべてが、ワーグナーにおいては外部に噴出しているからであり、また、ワーグナーによって音楽はその本能の安定性を失ったからである。しかしながら、そんなことは楽譜には1音符として、書きこまれてはいない。それを書きこんでいる者がいるとしたら、それはニーチェなのである。
 ワーグナーでは、すべての形象が比喩であり、すべての寓意が哲学になる。そこには同時に、ワーグナー自身のすぐれた資質が紡ぎ出した叩きつけるような言葉も出入りする。指揮者は、それらのすべてを、聴衆と、そしてワーグナーとに、返していかなければならない。

 こうしてフルトヴェングラーは、どんな古典音楽に対しても、最初は「無」か「混沌」からの出発を選び、そのうえで誰も演奏したことのなかった音楽をつくりあげることに達したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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