∂ジェームス・P・ジョンソン Jazz Pianist

🔁Lynの好きなジャズピアニストのひとり!

 

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∂ジェームス・P・ジョンソン (ピアノ) 

James P Johnson (Piano)

 

ジェームス・P・ジョンソン

フルネーム:ジェームス・プライス・ジョンソン James Price Johnson
1891年2月1日ニュージャージー州ニュー・ブランズウィック生まれ。
(1894年生まれという記載があるが1891年が正しいらしいと野口久光氏)
1955年11月17日ニュー・ヨークにて死去。

先ずは粟村政昭氏著『ジャズ・レコード・ブック』から
「偉大なるハーレム・ピアニスト、J・P・ジョンソンの名は今ではジャズ史の伝説の一部と化した感もあるが、その昔ラグタイム・スタイルに新しい息吹を与え、同時に強力なストライド奏法を完成して遠く現代のモンクにまで影響を与えた彼の偉業は、今一度経緯を持って振り返られるべきであろう。」

彼は同時代に生まれた多くの黒人ミュージシャン達とは対照的に極めて恵まれた家庭環境の中で育った。ピアノの鍵盤を叩ける年齢に達すると、アマチュア・ミュージシャンであった母親から、ラグやストンプの弾き方を手を取って教えられた。さらに後に進んで9歳になった時優れた個人教授にもついてさらに世紀のレッスンを受けるようになった。ここで正しい運指法とハーモニーについての知識を身に付けたという。
1904年(13歳)には学校の夏休みにプロのバンドで演奏し最初の収入を得たという。
さらに子供のころジャージー・シティを経てニューヨークに移り住んだと一家で移住したように書かれているが、粟村師が担当している「スライド・ピアノの父」(CBS AP 1474)に師は、「十幾歳かで早くもニューヨークへ出て、いわゆる「ピアノ・キッド」としてキャバレーで働くようになった」と、どちらかと言えばピアノ弾きとして働くためにニューヨークに出たようなニュアンスで書いている。
このころから10代の終わりまでレント・パーティーや夏のコニー・アイランド(遊園地)、小さなクラブでプロとして稼ぎ出し、時にはヴォードヴィル・サーキットに加わって南部を巡業したりしていたが、1918年ころにはハーレムのクラブ「ルロイズ」、「バロン・ウィルキンズ」、「クレフ・クラブ」などを根城にするようになった。
この頃先輩のラッキー・ロバーツと親しくなり彼の影響を受けたが、すでにハーレムではピアノのエースといわれるようになっていたという。一方粟村師は、ラッキー・ロバーツの華やかな右手の動きに魅せられはしたものの単なるショウマン的なピアニストとして終わることに満足せず、やがてAbbalabaという名のピアニストの正確な左手に感銘を受け、彼独特のトゥ・ハンド・スタイルを生み出すに至ったと書いている。
後に「ストライド派」の名ピアニストとなるファッツ・ウォーラーは無名だった10代の頃J・P・ジョンソンに可愛がられ、助言を受け「ストライド奏法」をマスターしたという。
彼の作曲した「カプリス・ラグ」他の曲が他のピアニストにも演奏されるようになり、エオリアン社の発売するピアノ・ロールのために演奏も行った。
1921年にはオーケーに初吹込みを行った。その時の1曲が彼の代表作の1つ「キャロライナ・シャウト」である。また同年巡業レビュー団<Dudley’s black sensations~“Smart set revue”>の音楽監督として各地を回った。
翌22年初めて自分のバンド<Harmony seven>を率いて演奏した。
1923年3月<Plantation day’s show>という黒人グループにピアニスト県音楽監督として参加し、初めてイギリスに渡った(レコード解説…野口久光氏)。
1924年ディヴ・ペイトンのバンドを引き受け、ヴォードヴィルのショウで巡業、欧州へも赴いていた(『ジャズ人名事典』)。
1923年秋ニューヨークのオールド・コロニアル劇場で上演された「Runnin’ wild」という黒人レビューのためにセシル・マック(1883-1925)とのコンビで主題歌頭数曲を書いたが、主題曲「Runnin’ wild」と新しいダンスのためのナンバー「Charleston」(チャールストン)が大ヒットを記録した。特に「Charleston」は同名のダンス・ステップと共に全米を風靡、ヨーロッパにもブームを起こし後に“The roaring twenties”(ローリング・トエンティーズ)を象徴する曲となった。
それからの数年は人気ソング・ライターとして景気が良かったせいか業績は見られない(野口氏))。
1928年デイリー劇場で上演された黒人レビュー“Keep shufflin’”に愛弟子ファッツ・ウォーラーとともに出演、4月にはW.C.ハンディのカーネギー・コンサートにもファッツとともに出演、7月には同ホールで上演されたニグロ・ラプソディ“Yamacraw”を作曲。> 
翌29年にはトーキー映画到来とともにブルースの皇后ベッシー・スミスが主演した短編ミュージカル“St.Louis blues”の音楽監督を行い自らも出演して演奏も行った。
この頃より30年頃はピアニストとしてより、アレンジャー、作曲家としての仕事が増えてくる。仕事の内容は、ジャズ、ポップスよりシンフォニー、オペラ、バレー音楽などの作曲家としての仕事が主であった。
40年に発作を起こした後は身体が不自由になり、47年に「ディス・イズ・ジャズ」の放送にタッチし、また49年にショウの音楽で西部に出たが、51年再度発作を起こし入院した。

野口久光氏によれば(「ストライド・ピアノの父/ジェイムズ・P・ジョンソン」MCA-3081ライナーノート)、これだけの名匠の割にレコーディングの少ないことに驚くとして、「ストライド・ピアノの父/ジェイムズ・P・ジョンソン」(MCA-3081)が発売された1974年現在で彼の名を冠したLPは5枚と出ていないという。
彼のレコーディングは、初期ピアノ・ロールのための演奏を別にすれば1921年8月という黒人ミュージシャンとすれば最も早い吹込みであるとし、ブライアン・ラスト及びイェプセンのディスコグラフィーによれば、レコーディング経歴には何回かの空白の時期があるという。

(∈http://jazzdiscnote.jp/JamesPJohnson.htmlサイトより一部引用)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

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