∂正法眼蔵 非二元

 

   

道元禅師の残した後世に残る日本の哲学&仏教書である。難解と言われているが、近年の非二元(不二一元)から読み解くとわかりやすい。非二元では、自分というのは思い込みであり、自分と他との境界はない、二元は無いということが特徴である(文献としては、インド最大の哲学者と言われるシャンカラ著のウパデーシャ・サーハスリーなど)。現成公案では、「仏道をならふといふは、自己をならふ也、自己をならふというは、自己をわするるなり」、という。つまり、身体を自己とする思い込みを身心脱落させる(無我をさとる)ことである。そうすると一顆明珠で述べているとおり、思い込みの境界が外れて宇宙は一つの明るい珠・一つの生命であることが了解でき、一切衆生・悉皆成仏により全てはその一つのいのちの現れであることがわかる(をさとる)。道元禅師は師の如浄の前で、悟りを開いたとされているが、その悟りの内容は、明らかに近年の非二元と一致している。また、道元禅師は修行として只管打坐の坐禅を奨めているが、思考を静める・観察することで思い込みの境界を脱落させることのようである。行持下には、「正法にあうて身命をすてざるわれらを慚愧せん」、とあり道元禅師の身命を賭ける覚悟の程が伺える。まさに、生涯をかけて読んでいく書に相応しい。座禅儀には、「思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち座禅の法術なり」とある。今の言葉では、座禅の要諦は、思考を静めること(不思量)、思考がわいても思考を観察・手放すことで、思考を自己と見做さないこと(非思量)となる。
さらに、次巻以降の而今、有時では時間の不在が説かれており、そちらも大変興味深い。

∈木村清孝 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/木村清孝

 

 

 

本書は、現在の禅寺と禅僧に対する不信から始まる。著者は、それらに近づくことなくしても、道元の真理を受けることとはできると言い切る。「仏の真理は何人の前にも開かれている・・・要求さえ切実であるならば、下智劣根を問わず、痴愚悪人を論ぜず、必ず仏の真理は獲得し得られる」。道元は只管打坐を唱える一方で多量の説教を書き残した。それらを分析的に読み解いていく、入門書として最適の一冊である。

「ここには『たまたま生を人身に受けた』現実の生活に対する力強い信頼がある。この生のゆえに我々は永遠の価値をつかむこともできるのである・・・我々がなし得、またなさざるべからざることは、ただ自己を空しゅうして真理を要求することに過ぎない」。「かつて悪人であったものが道を得たことは、一切の悪人の『道への可能性』を立証する。単に淫婦であり悪人であるゆえをもって、道場に入る権利を奪わるべきでない・・・何人もこの機会を遮げる権利は持たない」。全体に、かつてこの国に道元という人格が存在したことへの「驚嘆」が力強く語られている。惜しむらくは、執筆を「途中で挫折した」ために、最後が中途半端になっていることだ。冒頭で「自分の覚悟が足りない」と書いているのは微笑ましい。

 

∂内容紹介

『正法眼蔵』で知られる、日本を代表する禅宗の泰斗道元。その実践と思想の意味を、西洋哲学と日本固有の倫理・思想を統合した和辻が正面から解きほぐす。大きな活字で読みやすく。

∂内容(「BOOK」データベースより)

この文章によって、道元は自ら開いた曹洞宗の宗門を超え、日本思想の根幹をなす哲学者となった、記念碑的な文献である。坐禅の最重要性を説く『正法眼蔵』を正面から掘り下げ、日本人の精神生活の基底をなす仏教の普遍性を考察する。和辻倫理学の集大成『日本精神史研究』の核心部を大きな活字で独立させる入門書。

∂著者について

1889-1960。日本を代表する哲学者、文化史家。その倫理学は、和辻倫理学と評される。代表作に、『風土』『古寺巡礼』『日本精神史研究』など。その業績を顕彰し、和辻哲郎文化賞が制定されている。

∂著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

和辻/哲郎

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/和辻哲郎

 


1889年、兵庫県生まれ。専門は、哲学、倫理学、文化史、日本思想史。日本的な思想と西洋哲学の融合・止揚という境地を探り、その体系は和辻倫理学と称される。1960年没(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)