大変なことがたくさんあった
それは私にとってはとても大変なことだったけど外から見れば些細なことだったかもしれない
それらのせいにしてる面も多々あった
だけどそれだけの問題でもないのだろうし、そのことを解決したところで自分の理想の世界が目の前に広がる訳ではないだろう
子供に対する愛情は出産した母には標準装備だと思っていたところから間違いだったのかもしれない
生物学的にもそう説明されるからそうだと思っていたけど、想いと行動は別だった。なぜか一緒くたに考えていた。
とはいえ標準装備のお母さんの方が圧倒的に多く見える。だから焦りもあった。だけど実際には違うのだろうか。
子供がかわいい
子供に元気をもらえる
子供がいればどんな時でも頑張れる
そんな言葉を鵜呑みに、私は気付かぬうちに小さな小さな子供へ大きな大きな重たい仕事を期待していたのだろうと思った。
人それぞれ。
あるものはある。ないものはない。
ないものねだりはすきじゃない。
正確には、ないものねだりをしている人は好きじゃない。
なければないで仕方ない。
私は子供を産んでも自然に湧き出でる愛情はなかった。
ただただ生かすためのお世話だけはしなければと動いていた。
生物学的な母性は後者の行動的な部分だったのだな。
かと言って嫌いとかでもない。
幸せな気持ちや愛でる気持ちが自然と溢れてこなかった事に戸惑って、なまじっか思い当たる原因があったからこそか余計に時間をかけて戸惑っていた。
何が原因か、自分の何が悪いのか、お乳を吸わせなかったから母性ホルモンが足りなかったのか、引きずった考え方か、生い立ちに問題があるのか、原因ばかりを躍起になって探してた。なんなら今も探してる。
でももうそろそろ素直に目の前を見ていいんじゃないかなあ?とふと思った。思い始めた。
だって他人の子を見たらすっごくかわいいよ。
小さくて拙くてかわいい。
今だけ。今が一番小さい。今が一番かわいい。
今、というのは今の年齢という今じゃなくて今現在の今。常に今、の今。これからずっと続く今。
きっと。
だから何も考えずに他人の子と同じように自分の子も可愛がったらいいんじゃないかなーって思った。
自分の子だから…と差別するのは何より子供が理不尽だ。
何も考えず、小さな子供、かわいい、って、心から太郎を存分に愛しむ自分を味わいたい。
そう、自分。
太郎のため、と思い詰めていたけど自分、自分のため。
自分の、何かよくわからない勝手に作った拘束を取り払いたい。
自由に感情を動かしたい。
何か変なことを言っているかな?
後でこれを読んでどう思うかわからないけど記録として、今の気持ち。
許されたい。何に?
愛したい。太郎を。