同調圧力とは?
集団において、少数意見を持つ人に対して、周囲の多くの人と同じように考え行動するよう、暗黙 のうちに強制すること(デジタル大辞泉)。
「どうせ他人が作った儲けるだけの箱なんだから、さっさと抜け出せば良い」
そう言って会社の方針ややり方についていけず、ブラック企業よろしく、早朝から深夜まで働きずくめ、かといって長いものに巻かれることもできず、今さら退職することもはばかって、悶々と悩む人に発破をかける人がいる。
たしかに、そのままそこにいれば身体を壊す可能性が極めて高いし、下手すれば鬱にかかって自殺願望を抑えきれないところまで追い詰められもしよう。
学校同様、命をかけてまで行く必要はないと思う。
そんなこと言ったって、家族もいるし経済的なことを考えれば辞めたくても辞めらるない、他に行くところもないしという気持ちも分かる。
会社とも掛け合ってみたし、信頼する上司や同僚にも相談したけれど、改善する兆しもなく、多数者の雰囲気にただ流される日々。
石の上にも三年。
されど意思の下にも潜在意識では、あと3日も持ちそうもない。
刀折れ矢尽きれば、すべてに背を向けたくなって衝動的な行動を取らないとも限らない。
自由。
心の自由が欲しい。
それを前提とした個性が何よりも大切なこと。
少数者の意見を真摯に聞こうとする耳をいつしかこの社会は塞いでしまった。
それは何故だろう?
そんなことを考えていたら、通教で学び、実は明日行われ、焦り気味の「政治学史」の試験範囲で学んだこととリンクすることに気づいた。
古より人々は幸福を目指してきたはずである。
一時期、イギリスで発祥した功利主義が世界を席巻した。
その創始者であるイギリスのベンサムの思想は、快=幸福を感覚的満足とする量に還元し、最大多数の最大幸福を目指す「量的快楽主義」であった。
その思想を受け継ぎつつ、あるところでは反発し、功利主義に欠けていた部分を補うことで、より真理にたどり着こうとしたのがミルである。
それが今日の閉塞感を味合わされている私たちに問いかける意義は大きい。
ミルは何を訴えたか。
ベンサムの量的快楽主義に対し、「個性」や「能力」という質的内容、すなわち精神的幸福を突き詰めていった。
自己完成と人間尊厳へ至ることが自発的で最大に尊重すべき要素であり、そこに真の幸福があるという「質的快楽主義」に帰結した。
その上で社会を構成する各人の個性が向上、発展すれば、そのまま社会の進歩に繋がるはずであると主張した。
逆に個性が押し潰される社会ならば専制主義となり、そうならないためには前提となる「自由」が必要になる。
その掛け替えのない自由とは、他者を犠牲にしない限りにおいては「自分自身の幸福を自分なりの方法で追求する自由」である。
つまり、個性の自由な発展、無限の尊重、それらに加えて「境遇が多様であること」こそがミルの代表的な著書『自由論』の核心であり、その結果として人間の真の目的である「能力と成長における個性」が内発され、「個としての活力と豊かな多様性」や「独創性」が開花する。
自由と個性を最大限に尊重するミルは、そのために個人の領域に関わる「思想と言論の自由」、「趣味と職業の自由」、「結社の自由」を必須条件として掲げた。
ここに見られるのは、「自分にしか影響を与えない部分こそが、人間の自由の固有の領域」との彼の公/私区分論であり、現代の自由主義の源流となっている。
そして元に戻る。
当たり前だが会社を辞めずに働くのも自由、さっさと辞めるのも自由。
自己に関わる行為では個性と自発性を持って自由に活動し、各人が最終決定者であり主権者なのだということをもう一度確認したい。
逆に憶断や強制といった害悪による社会的干渉は排除すべきであり、個々人の絶対的な独立こそが肝心要なのだ。
自分以外に影響を及ぼす他人に関わる行為のみに、自由の抑制を要する民主主義の制約原理が働く。
抑圧される少数者の意見に真理が語られている場合が多く、法や世論の絶対的に信じられている意見に誤謬があることも多い。
異なる少数の意見を尊重すべきなのだ。
反論、反証する権利を奪ってはならない。
反対者がいなければ反対者を想定してでも作れとミルは言っている。
そうして互いの意見をぶつけ、それは内面の二人の自己の間でも取りかわせ、半真理と半真理を戦わせ、より真理に近づける方途が長年のドグマの呪縛から解放させる。
最後にミルの言葉で締めくくりたい。
「一人の人間を除いて全人類が同じ意見で、一人だけ意見がみんなと異なるとき、その一人を黙らせることは、一人の権力者が力ずくで全体を黙らせるのと同じくらい不当である」