最近、店が終わるのが遅いこともあって、入浴し、軽く夜食をとったあと、眠れずに、ぼーと自分の心を見つめる習慣が付いた。昨夜は朝方までこんな途方もないことを考えた。

過去の過ちを認めるのはいいけれど、自分を掘り下げて考えると言っても、潜在意識、フロイトの言う無意識領域の原始的生物的エスの無秩序でドロドロしたカオスの世界を垣間見ることは極めて危険である。深入りすると、現実の世界に二度と再び戻ってこれない場合が実際にあると聞く。見なくてもいい自らの闇を直視して死を選択してしまった人もいる。そんな予感の怖さから、私たちは薬物や酒、ギャンブル、異性、金、名誉、権力、あるいは仕事、誤解を覚悟でもっと言えば家族など、あらゆるもので誤魔化し逃避する。

ある精神科医は治療の際に、熱意のあまりクライアントの無意識層に入り込み過ぎて、自ら脱け出せなくなった例もある。
また、先日、作家の村上春樹さんが講演で面白いことを言っていた。人間精神には地下一階と二階があり、二階に降りなければいい作品は生み出せないと。しかし、そこに行くにはとても正気では行けないとも。事実、人間心理を深く掘り下げる作家、あるい芸術家やアーティストたちの過去を遡ると、薬物依存やアル中になった人物が実に多いことに気づく。彼らも作品を生むのに闇を見つめた結果、正気では耐え切れなくなってしまったに違いない。

ところで、以前も取り上げたフロイトの精神分析学では、精神構造として「意識」、意識すれば意識可能な「前意識」、自分だけの力では意識不可能な「無意識」という三つの層に分類して患者の治療にあたった。言わば意識のあり場所である。しかし、それではもの足りず、精神の機能面を重視し、原始的本能、わけのわからない欲望を何としてでも叶えようとする「エス(イド)」と、それを抑圧する「超自我」、そしてその欲望、そこから湧いて来る耐え切れないほどの感情や出来事を検閲し封印するか、道徳や規範に耐えうるものだけは意識に浮上させる調停役の「自我」で捉え直した。普通人は、そこで生きる。ところが、何かが原因になって、我が儘怖いもの知らずのエスが抑圧を撥ね除け、意識に上る時がある。これは私たちにも身近で、夢がその状態に極めて近い。そして朝など、夢うつつ状態の際も封印の抑圧が薄れている。そんな時、良い意味の意識と解き放たれたエスが出逢い、化学変化を起こして一種の悟りや、永年答えの出なかった問題を解決し、発明を生む場合もある。それがアインシュタインの相対性理論だったり、失敗続きのエジソンたちの発明品だったりする。エスが有用に働いた場合である。

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ブラックホールに吸いこまれる星の残骸


一方、これまた作家の筒井康隆氏は、小説「パプリカ」を書いた時に同じような体験をし、こちらはとんでもない結果を産みかけた。無意識を扱ったストーリー内容だったが、執筆中にそんな関係で変な夢ばかり見た。ある朝、その得体の知れない夢を小説に取り入れようとし、それに都合のいいように夢を弄くり回した。その結果、一晩で白髪が増えるなど、かなりやばい心理状態になり怖くなって、それ以上無意識に深入りすることを諦めた。

しかし優れた作品は、意識出来る世界を書くよりは前意識で何とか意識に浮上させる世界を、より深い作品は無意識層にまで入らなければなし得ないようだ。現代人が病的になった原因を探り、そこからより良い人生を作り上げたければ、危険極まりない無意識にまで踏み入れなければならないのだろうか?何度も言うように、それはあまりにも無謀な賭けだ。いや、賭けにもならず、ブラックホールに入って謎を探り、生還を期待するようなものと言える。

立ちいることの出来ない無意識、さらにその奥の欲望の交錯するイドには死の匂いすらする。そしてそれは秩序と無秩序、カオスが混在する謎の宇宙にも深く結び付いている。抑圧するだけの「超自我」ではとてもそこには辿り着けない。同じ自分を超えるものでも、自ら生み出したそれではなく、人間を超え、世界を超え、宇宙と結び付く存在が必要だ。それはイドを抑圧するのではなく、混沌とした莫大なエネルギーを秘めた生的欲求をそのまま宇宙に結び付けて、悟りを開くもの。実に宗教的なるものであろう。つまり、本源の宇宙即人間的なる法を拠り所として、闇を切り開かなければなるまい。

そこはもう、人生にもっと面白いことはないか、本当の自分を探すんだとか言った次元ではなく、根源的な問い掛けとなる。浅はかな人智で禁欲主義などによって超越するだのの比ではもはやない。

無論私は到底、そこまで到達出来ていやしない。今はただ、目の前の人と接し、目の前の仕事を片付け、あらゆるものから学ぶ姿勢を堅持し、今出来ることを淡々とやり続けてゆくしかない。そして時々は昔に戻り、あの頃をやり直せたらって、誰かの歌のように思うばかりの宇宙のつまはじきものに過ぎないみたいだ。