失敗だらけの人生を歩んで来た。
(何か太宰治の『人間失格』の出だしに似ているが)
生まれて来たことにごめんなさい。
生きていることに恥ずかしさを覚え、生かされていることの後ろめたさを背負い、後ろ髪を引かれつつ前のめりになる。

振り返ると我が人生に、花は咲いたことがあるのだろうか。
あったとしても、もう枯れていて、虫けらの寝床になれ果てている。
そこここで友の墓標も立ちはじめ、やり残した青春の戦場旗印も破れ落ち、そこに残るのは私に叫び続ける慟哭のみ。

そんな心境の夜は、妻と家族の笑顔を眺め、布団を被って眠ってしまおう。

しかし、それでも夢の中でも茨の道は私をがんじがらめにする。
生きて行くのも死んで行くのも一人きりだと叫ぶ。

変な少年だったかも知れない。


こんなことを考えていた。


道とその周りの景色を心の中に描きながら、今、死んだら世界は終わる。
その後もずっと存在するはずの世界も、自分にとってはなくなってしまうのだ。
それはどういうことか?
あるいは仰向けに寝転びながら、天井の木目を見つめ、時間が経つ不思議さを思った。
何年、何十年過ぎても、変わらないであろう模様。
でも、何かおかしくないか?


photo:01

ロシアの文豪トルストイが、自身の著作『生命論(人生論)』でこんなことを言っている。
少し長文だが、生と死、この世界について示唆に富む言葉なので紹介したい。

「真の生に目覚めた者は死を恐れない。
生ははじまりも終わりもなく、時間や空間に規定されず、この世で生じたものでもない。
肉体の死はこの生を滅ぼすことはないから、恐るに値しない。
私は今存在している世界との関係のなかで存在している。
私の肉体はたえず変化し、私の意識も一連のものの系列である。
生は絶えず動き、世界との新しい関係に入る。
死は一つの世界に対する関係から別の関係に入ることである。
これを理解した者に死はない。
それを理解せず、生のかぎられた一定の部分を生と考えている者に、生の停止、つまり、死があるのだ」
(『トルストイ』藤沼貴/第三文明社)

抽象的で「世界との関係」という概念が捉えにくいが、私はこう解釈した。
自分という生命は本来この世界にも肉体にも存在せず、実は私たちを生んだ根源との関係の中にある。
それは物理的な場所ではなく、ここであってここではない。
方向性や時間に束縛を受けず、重量もなく、ただ「関係」として存在するということ。
私の謎を解明するきっかけを掴んだ思いがした。
つまり、私が死のうが生きようが、世界が破滅しても再生しても、そこに私の存在はない。
あらゆる全体に元々あって、電極が繋がるように根源と結びついた時に顕れでる現象とでも言えばいいのだろうか。
どこにも音楽を乗せた電波があって、受信機で接続すれば流れてくるように。
だから古くなった肉体からは顕れでることがなくなり、別の何かにつながった時に、そこにあらたに顕在化する。

photo:02

生命論を関係性で捉えたのは、ギリシア哲学を祖とする。
私たちは自ら作り出した生の限界の中に閉じ込められている。
円周性の世界で万物を対象的に捉えている。
世界とはそんなちっぽけなものではない。
私たちの知っている世界はごく一部に過ぎない。
そこから抜け出さない限り、物事の本質は見えては来ないということなのだろう。
狭い視野で、自明のことでしか知性を働かせない。
円周を持たない中心に位置してはじめて真実の世界が姿をあらわし出すのだろう。
しかし、それは極めて危機的状況で、これ以上ないほどの悲劇が起こるときに動きはじめる。
中心の私たちが地盤を失い、無限の闇の中に放り出され、苦しさのあまり身じろぐときに。
円周がなくなり、自明のことが飛び去り、やっと生が見えて来る。

危機的な時代に価値変換が起こり、あらたな創造がなされて来たのは、そういうことなのだろう。
大哲学者、大文豪もそんな時代にこそ生まれている。
彼らの声を傾聴することくらいしか、今の私に出来ることはないが、意見を言い、その理由を探す旅の中に、次の駅が見えてくる気がしている。

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