天を慰労しよう | サンクチュアリ伊那教会

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私達は多くの問題を抱えながら生きています。幸せになる為に、人間本来のあるべき姿を知り、どのように生きるべきかを学び、日々の生活の中で実践して行く事が大切です。このブログを通して一人でも多くの方が学んで下されば幸いです。

真のお父様のみことば
天を慰労しよう

1968年4月28日
 『文鮮明先生み言選集第二十巻』

 今日、この地上に生きている人間は、みな慰労の中心を求めています。個人的な慰労の中心、家庭的な慰労の中心、そして国家的な慰労の中心、世界的な慰労の中心を求めています。さらには、天と地の全体を代表した天宙的な慰労の中心を求めています。

◆慰労の中心を必要とする人類

 天地が存在する限り、このような慰労の中心となる方が、必ず現れなければなりません。そうして、その方は慰労の主体となられ、万民を慰労しなければなりません。個人を慰労し、家庭を慰労し、国家と世界を慰労して、希望の世界をつくらなければならないのです。神様はそのような方を送るために人類の前にメシヤ思想を立て、今まで摂理歴史を導いてこられました。このような事実から推し量るとき、皆さんは「神様はいない」と否定することはできません。

 したがって慰労の中心として来られるその方が、単なる個人的な慰労の存在としてとどまるのではなく、その方を中心として、全体を代表した慰労の家庭が現れ、氏族が現れ、民族が現れ、国家が生まれなければならないのです。それが、この地上の歴史過程に現れた選民思想です。ヤコブが悪と対決して勝利した基台の上に、初めてイスラエルという一つの基盤を中心とした慰労の芽が芽生えたのです。その家庭から出発して慰労の氏族、慰労の民族、慰労の国家が立てられれば、そこに初めて世界的な慰労の基準が立てられるのです。こういう基準を立てるために、国家的基準の前に来られた方がメシヤです。

 イエス様は、悲痛と孤独に満ちたこの世を、慰労の世界、平和の世界へと変えるために来られました。その時に準備されていた国が、イエス様と完全に一つになっていたならば、そこで初めて人間が心から待ちわびてきた平和の起源を求めることができ、すべての人間が慰労の主体に出会い、幸福な出発をするはずだったのです。ところが、その方が来られたのに迎えることができなかったので、これが今までの歴史過程における何よりも悲しい事実であった、ということを私たちは知らなければなりません。

 ゆえに人間には、慰労の中心がなければならないのです。一つの国家、一つの氏族、一つの家庭、一つの存在。これらを国家と世界にまで連結する中心存在が現れなければなりません。そうならずしては、この地上に慰労の天国はできません。

◆神様の慰労の対象になれなかったアダムとエバ

 神様の側から見て、人間が堕落しなかったならば、アダムとエバが成長すること自体が神様の前に慰労の対象となり、造られたすべての万物が神様にとって慰労の対象になるのです。アダムとエバが生活すること、彼らと関連したすべてが、神様にとって慰労の刺激的要素になるのです。

 ところが、人間が堕落することにより、神様の慰労の対象になれなくなったことを皆さんは知らなければなりません。こう考えると、人間だけが慰労の対象を求めているのではなく、神様もやはり慰労の対象を探し求めているのです。

 それでは、神様を慰労するためにはどうしなければならないのでしょうか。神様を慰労するためには、知るべきことがあります。それは人間始祖アダムとエバが、どのような存在であったかということです。

 アダムとエバは、神様に代わってみ旨を成し遂げるために立てられた存在です。言い換えれば、神様のすべての喜びと幸福の要件に相対する存在として、すべての被造世界の中心に造られたのです。そういうアダムとエバを見つめる神様は、どれほど喜ばれたことでしょうか。そしてまた神様が、本然のみ旨を成し遂げるための理想を中心として、彼らと共に、御自身の事情を語り心情を交わしながら生きたかったかを、皆さんは考えてみなければなりません。

 ところが、アダムとエバが堕落することによって神様は、彼らを真の人類の先祖として、人類の父母として、御自身の息子、娘として接することができなくなりました。アダムとエバは、神様の前にまたとない息子、娘であるにもかかわらず、神様が息子、娘として接することのできない立場に立つことになったのです。また神様は、アダムとエバが成長したのちには、夫婦として祝福し、慰労の対象にしようとしました。ところが彼らは、息子、娘としての慰労の対象になれなかったのはもちろん、新郎新婦としての慰労の対象にもなれませんでした。

 神様の抱いた願いが大きいだけ、彼らに無限な価値を与えて望んでいらっしゃったのですが、彼らが堕落することにより、神様は子女としての慰労の心情を感じることができず、新郎新婦、すなわち夫婦としての慰労の心情も感じることができなかったのです。神様はアダムとエバが将来、希望の先祖として、全人類の前に唯一の王として、神様の前に忠孝の道理を立てる立場に立つことを願われました。しかしながら、神様の前に彼らが慰労の対象になれなかったという事実を、皆さんは知らなければなりません。

◆神様を慰労してさしあげるには

 それでは、このような立場にいらっしゃる神様を慰労してさしあげるには、どうすればよいのでしょうか。堕落したアダムとエバ以下の基準では、神様の前に慰労の対象となることはできません。真の息子、娘として神様の前に立てなかったがゆえに、真の息子、娘となって初めて神様を慰労することができるのであり、真の新郎新婦になれなかったことが恨と悲しみになったがゆえに、真の新郎新婦になってこそ慰労の対象となることができるのです。

 天と地をすべて主管できる一人の主人公として、万国あるいは万民を主管できる一人の王として責任を全うすべきアダムとエバが、責任を全うできなかったという立場に立っているがゆえに、それ以上の立場に立たなければ、いくら神様を慰労しようとしても、それは慰労にはならないのです。

 それゆえ、このような慰労の責任を担って、この地上に誰かが来なければなりません。もしその全体的な責任を担う人がいないとすれば、他のいかなる個人でも現れなければなりません。

 人類始祖が堕落し、再創造の原理過程を通過せずしては復帰されないため、まず男性が現れなければなりません。男性が現れなければ、女性が現れることができません。いくら神様の娘として、神様を慰労してさしあげたくても、男性がまず現れなければ、女性一人では娘の立場の責任を負うことはできません。それゆえ、今までの復帰摂理歴史において責任を担ってきた人物は、女性ではなく男性だったのです。

 それでは男性がこの地上に来てすべきこととは何でしょうか。それは、アダムが神様を慰労してさしあげることができず、真の息子の立場で孝行ができなかった基準を蕩減復帰して、人類を神様に連結させることです。そのために、先祖たちが歴史的な責任を担ってきたという事実を皆さんは知らなければなりません。

 この世界は、サタンが主管する悪なる世界であるために、そのような責任を負った人々が現れたならば、彼らを中心としてこの世を整理しなければなりません。それゆえアダム家庭からノア、アブラハム、モーセ、イエス様以後、今まで六千年間の長い歴史路程においても、天のみ旨を担ったのは女性ではなく、男性でした。このように責任を担った男性が尽くした精誠を総合して、その精誠の基盤の上に真の息子が現れなければならないのです。神様が「お前は私を喜ばせる息子だ」と称賛できる人が現れなければなりません。

 このような一つの中心存在として、この地上に来られた方がイエス様でした。イエス様がヨルダン川のほとりで洗礼ヨハネから洗礼を受けて、水から上がるとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ三・一七)という神様の声がしました。これは、ようやく天と地が喜ぶことのできる一人の存在を探し求めたという意味です。これが、どれほど大きい神様の喜びだったのかを皆さんは知らなければなりません。