神は人に裁きを下す人格神か?それとも自然神か?
新約聖書に記されている神が、実は今までキリスト教徒たちが考えていた唯一神、人を裁く人格を持ち合わせた神だという考えを翻す可能性のある記述を何年も前に見出していたのだが、ここにようやく書き留めておくことにする。
その神とは人格神ではなく、汎神論で言うところの神=自然神であると解釈できる文章表現になっていることに気付いたのだ。
それはヨハネの黙示録において記されている。
ではサンパウロの新約聖書から早速該当箇所を引用しよう。
神の僕たちは神を礼拝し、
み顔を仰ぎ見る。
彼らの額には神の名が記されている。(ヨハネの黙示録22:3,4)
さて、これを読んでもキリスト教徒に限らず誰であってもいまいちピンとこないと思う。
なぜこの記述が神の正体が人格神ではなく、自然神を言い表しているなどと言えるのか?と疑問を持つ方が多いに違いなかろう。
あらかじめ先に言わせてもらうが、この部分の前後の記述も併せて実は現代において、私自身が知り得たある事実と照らし合わせることによって、意味がしっかりと通る文章になっていたことが判ったのである。
今回は真偽についての検証がさらに必要なため、その全体像を明かすことはできないがその点はどうかご容赦いただきたい。
それでは、上記該当箇所を現代の我々の常識に照らし合わせて解読するとどうなるのか?
まず、神とは自然のことである。
また自然とはこの宇宙大自然の法則を内包しているために、その前提で解読する必要がある。
神が自然のことだとすればその自然とは、つまりは森羅万象を指し、物理法則そのものに支配されている世界なのだから、神に仕え礼拝することは、その法則に準じただ従うことを意味している。
我々人類はこの宇宙大自然の物理法則には例外なく従わざるを得ないのは明白な事実だ。
だから我々は「神=自然」そのものが支配する物理法則に従って生きる、まさに僕であるということだ。
では「み顔」はどう解釈するのか?
これは擬人的な表現だが、上記のことを踏まえると、「み顔」とは法則そのものの現象を指す表現となる。
従って「み顔を仰ぎ見る」とは、❝それら物理法則をあるがままに見る、観測する❞、となる。
そして最後の一文、「彼らの額には神の名が記されている」については、どうだろうか。
・・神の僕たる我々人類の額、つまり頭にある知識には神の名が記されている。
この神の名とは、各々自然法則に付けられた名称のことであると解釈できる。
具体例をあげれば、それは万有引力の法則であったり、光速度不変の法則だったりと、人類が発見するに至った諸々の自然法則を指し示す名前のことである。
そしてその法則を表す名称には、大抵判るようにその持っている性質や及ぼす効果などを含んでいるものだ。
では、まとめよう。
神の僕たちは神を礼拝し、
み顔を仰ぎ見る。
彼らの額には神の名が記されている。(ヨハネの黙示録22-3,4)
この記述の解釈はこうなる。
我々は宇宙を統べる法則を崇め、
その法則による物理現象をまざまざと見せられる。
我々には、それぞれの性質を表す名称が付けられた物理法則の知識がある。
ここまでを読んで、どのような感想を抱いただろうか?
これら解釈の全体像については追って記事にする予定ではある。
※本記事の内容について、許諾なしに引用や転載はできません。出版物への盗用も厳禁です。