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銅像のススメ~めざせ次世代観光カルチャー~

観光名所は二の次、「銅像」主体の紀行をテーマにしたブログです。
男の観光カルチャーであった「歴史見聞」「鉄道」も今や 「歴女」「鉄子」が出現するブームになっております。
ならば、銅像好きの女性「銅女(ドウジョ)」が生まれるようなブームを作り出しましょう

前々回銅像日記No89 銅像日記No.89 敦賀市の銅像「宇宙戦艦ヤマト」   北陸編の続きとなります。
※旅自体は2年前の話なので、記憶を思い出しながらの記述となります。

敦賀の名勝といえば、日本三大松原である「氣比の松原」。
銅像に全く興味がない嫁さんを連れだっての旅行なので、各地の名勝は押さえておかないわけにはいきません(笑)

氣比神社から県道33号線を1、2キロほどで氣比松原に到着します。

赤松、黒松が約17000本生い茂っており、敦賀湾の砂浜で、海水浴場にもなっております。
ゆったりとした時間を過ごすことが出来ました。
  

県道33号を来た道に戻り、野球場を越えたすぐの信号を敦賀市役所方面に曲がります。
そのあたりの住宅地に銅像があると聞いていたので訪れました。

武田耕雲斎
場所:福井県敦賀市 武田耕雲斎等の墓所(松原公民館横)

あまりこのお方と水戸天狗党の話は詳しくなかったのですが、調べてみると以下の

幕末(1864年)に水戸天狗党の首領に祭り上げられ尊皇攘夷の運動を興し筑波で挙兵。
その頃、京都でも尊皇攘夷派の長州藩の動きが目立ちますが、水戸天狗党の挙兵の動きにも
後押しをされていたようです。
しかし「禁門の変」で長州藩が朝敵となると、水戸天狗党など筑波勢に対しても追討軍が派遣されました。
 
武田耕雲斎一行は、京都の朝廷に志を訴えようと一橋慶喜を頼りに京へ出発します。
しかし敦賀に入ったところで頼みとしていた一橋慶喜も追討軍として出征をしていると聞き、これ以上の
進軍を断念し投稿。結局処刑されてしまいます。

この銅像の背後が、少し高台になっている墓所となります。
私個人的に、墓所にある銅像を撮影することは気が引けるので、銅像のみの撮影。
※ただ今思えば、風景はもう少し撮影しておけばと思いました・・・

武田耕雲斎像が見つめる先は、松原神社があり、天狗党一行が監禁された場所があります。
そこは行きませんでしたが、銅像の手前から水戸天狗党の墓所に手を合わさせていただきここを後にしました。

今回の北陸旅行は、1泊2日の強行スケジュールなので、即出発。
再び県道33号を氣比神社方面に戻り、国道8号線に出たところで金ヶ崎トンネル方向に進みました。 
後から気づきましたが(地名で気づけよ・・・・)トンネルの上が金ヶ崎城址だったみたいです。
 新田義貞公やあの織田信長公が窮地に陥った金ヶ崎の撤退など歴史のターニングポイントを生み出した
場所でしたので、次回はゆっくり見学行きます。

その金ケ崎トンネルをくぐり抜けると(株)敦賀セメントの工場がありますが、工場内の社に
2体の胸像が見えました。

熊谷三太郎(左)、三谷弥平(右)
場所:福井県敦賀市 (株)敦賀セメント 敦賀工場内


路上で少し停車して 柵の外から撮影。 遠方にある門の警備員さんが怪訝そうな顔で
見ていたような気がしましたが、撮影してそそくさと退散・・・。

敦賀街道を福井方面に向かいます。 つづく

撮影日:2013/5/31