SeventhJenma
たまにアガスティアの葉の体験談を読むと、ナーディに お寺で *日間の**をするとよい・・・と勧められ「商売上手だと思った」と書いている方がいたりします。
プージャ(リミディ)のコンセプトは、日本人にはないものだろうので、そしてインド人は聞かれないと説明をしないので、この記述は日本人の方にはわかりづらく、何かの霊感商法かと勘違いされやすいのかもしれません。
まず、ナーディを読んでいる側としては、書いてあることを伝えているだけなので、商売でもなんでもありません・・・。内容を伝えるのが仕事です。
ない人にはないって伝えます(もうどうしようもない場合とかもあるので・・・)自分でできる
ものが書いてあればそれを伝えます。
まず、アガスティアナーディは、「よく当たる占い」ではなく、それを読む人が、その人らしい人生を送るために、それらを妨害する人生の障害を取り除く処方箋ということを、知らない方が多いです。
ナーディリーダー・クベランは、「ナーディを読むだけでは意味がない」といつも言っています。
例えば、処方箋をもらっても、薬を飲まないのと同じことなので、処方する側としては、なんのためにナーディ読んでいるんだ・・・(患者さんがなんのために医者に行くんだ・・・)ということになるからです。
ナーディはあくまで「診断」であって、人生を良くするためにはその「処方の実行」が必要になるということです。
人生にはいろいろな障害があります。2020年から、コロナには全人類がと言っていいほど影響を受けたと思います。私の博士課程にも、コロナの影響で進学を遅らせた人もいました。
プージャ(リミディ)は人生における障害の影響を和らげ、人生を進みやすくするためのもので、それを読む人の症状(状況)に合わせて、その人のためだけの処方があり、用法(リミディの内容)と容量(リミディの頻度と期間)までが指定されています。
たまに「障害は人生に必要なのでは?」という方もいらっしゃいます。
例えで言えば、仕事に行かないといけない、という状況があったとします。
仕事場に行く途中に、雨が降っていたら、→傘をさす、徒歩ではなく車を使う、などと工夫して、目的地に行きやすくしますね。
「障害は必要だから雨に濡れていきます!」という選択をしてもいいけれども、その後風邪をひいたり、電車に乗りづらくなったり、色々とめんどくさいことになりながら、その後の仕事をやらないといけないということになります。
雨の中(障害)を歩くのは変わらないとしても、傘をさすなど、雨に濡れないように予防して雨の中を歩く方が、その後の目的を達成しやすいですよね。
大雪だったり、台風の中だったり、道路が凍結していたら、命に関わる危険となって、わざとその障害に素手で向かっていくメリットはもっとなくなるかと思われます。
大雪で電車が止まってしまったら、その日に仕事に行けるかわからないけど、例えば別の手段を使ってみれば、車だったら行けるかもしれないし、リモートで仕事をこなす手段もあるかもしれないですね。障害があったとしても、手段があれば何かができるかもしれません。
逆に、大雪の道路に「障害は人生に必要だから」と歩いて滑って転んで骨折したとしたら、その日の仕事場に行けなくなるどころか、その後数ヶ月仕事に行くことに苦労することになるかと思われます。
これが、人生の場合、雨や雪ではなく、事故・病気・何かの損失など、大きな問題になったりします。すると、その後のダメージからの回復に時間とエネルギーを使うことになり、人生の本来の目的(ナーディに書いてあるような人生で行っていくこと)を達成しにくくなります。
プージャ(祈祷リミディ)は、雨の中の傘や、雪の日のショベルカーみたいなもので、障害があったとしてもその回避の選択肢を増やし、そこからの回復を早め、人生をスムーズに運ぶための、聖者の処方箋です。
アガスティアナーディは、「よく当たる占い」ではなく、聖者が書いた神聖な予言です。
インドの哲学では今の時代はカリユガと言って、人々が物質主義に走り、騙し合いが増える世の中です。みんながお互いを騙す社会なので、何かあるごとに「この人は私を騙しているのでは・・・」とか、「これは商売上手なのでは・・・」と疑いの念が出るのも当然だと思いますし、アガスティアの葉は現地の人にも詐欺だと思われているほど、偽物が多く、それがまた、疑いを生むことになっているのかもしれません。
ですが、アガスティアナーディは、聖者の言葉であり、処方はそのかたより良い人生のために聖者が数千年前に処方してくださったものです。
それを、この世の中には騙す人が多いから、という理由で、疑うのは、(もちろんその方の自由ですが)勿体無いのではと思います。
ナーディの目的は、そういう、世の中の汚いごちゃごちゃより、
もっと遥か上にあって、もっともっと愛に溢れたものです。
みんなが幸せになるように、大昔の聖者が、遥か先の未来に生きる私たちを想って残してくれたものです。
そのすごく真剣な恩恵と思いに、疑問や疑惑という低いエネルギーに囚われるのではなく、
敬意を持って接していただけたらなあ、と思うのでした。
まあ、これは私の願望なので、何を思うかは読まれる方々の自由なので、
別にそれはそれでいいのだとも思います。