こんばんは。

 

 

藤田です。

 

 

先日産経新聞の方に震災から8年目の節目に取材をして頂きました。

 

西澤さん、早坂さんありがとうございました。

 

Facebookで見ていただいた方もいると思いますが改めて

僕自身が経験した東日本大震災という出来事をこのブログで

思い出しながら書いていきます。

 

多くの人に震災経験があることは知っていただいてますが

どのような経験をしたのかを載せるのは初めてなので

ゆっくり読んでいただけると嬉しいです。

 

 

 

2011311

 

当時は高校2年生の僕は

たしか卒業式か終業式のプレが終わり地元気仙沼の実家に13時半には帰宅していた。

 

午後には水泳の練習が控えていたのでそれまで体を

休めていようと本を読みながらのんびりしていたのを覚えている

 

今日の練習は何だろうなー、と気楽に考えていた時だった。

 

 

 

1446分 東日本大震災発生

 

 

 

揺れ始めはほんの少しのものだった。

次第に大きくなりはじめ「ああ、いつものことか。」と思い始める。

 

地元気仙沼は元々地震や津波の頻度が多かった。

宮城県沖地震、チリ地震津波などを幼少期から聞いており、

地震や津波に対しての教えは地域、学校、家庭、各コミュニティで聞かなかった日はない。

 

それに加え、39日に震度6の地震が来ていたのでその余震がまだ残っていたのかなと気楽に考えていた。

 

しかし、揺れは少しも収まることなく続きやがて違和感に変わる。

 

「あれ?いつもより長いな。。今日練習休みになるやつかな。。」

 

 

そして

 

ドドン!!!!

ドドドドドドドドドドドド!!!!

 

今までに聞いたことのない地鳴りと体感したことのない縦揺れが一気に気仙沼を襲った。

 

ベッドで横たわっていた僕は急いで飛び起きたが、立っていられるものではなかった。

 

部屋中のものが散乱し、窓際の写真立ては倒れガラスが散っていた。

 

 

少し揺れが落ち着いた1450分。

いつもは履くはずのないスリッパを履き3階から1階へと駆け下りた。

 

2階のテレビは倒れずにとどまっていたが

父の集めていたDVDたちは無残に散らばっていた。

「なんだよこれ・・・」

見たこともない光景に唖然としながら進む足元は

ガラスの破片だらけで、つくづくスリッパの重要性を感じた。

 

1階に着くと祖母がいた。

 

宮城県沖地震やチリ地震津波の話を日ごろから口酸っぱく教えてくれた祖母が

テーブルの下で数珠を握りながら「ナンマンダブナンマンダブ・・」と震えながら唱えていた。

過去の災害経験者がここまでおびえているのはただ事ではないと感じ、祖母に声をかけた

 

「ばあちゃん!!!!大丈夫!?」

「真平かあ。地震だ。地震がきた。避難しねぇど!」

 

そう言う祖母の足は力が入らない様子で一向に立ち上がれそうになかった。

 

するとまたドドドド!!!!と大きく揺れ始めた。

 

 

 

おびえる祖母をなだめ、揺れが続く中僕は外に出た。

 

「ただいまー当地方にー宮城県沖を震源とする大地震が発生しましたー」

「大津波警報が発令されましたので、速やかに高台に避難するようにしてください」

「繰り返します。当地方にー・・・・・」

 

ウーウーと鳴り響く警報音が町を包む

 

電線が波打ち。電柱が大きく横に揺れ、家屋から埃が落ちてくる。

 

建物が揺れてるなんて優しいものじゃない。

 

大気が、町全体が、地鳴りとともに揺れていた

 

 

 

恐るべき事態に直面しているにも関わらず

なぜか僕は笑っていた。全身鳥肌を立たせ、震えながら。

 

今まで体験したことのない恐怖、どうしようもできない状況を

受け入れることができずただそこに立ち尽くすしかできなかった

 

 

続く