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もっと、自由に。

人は一人じゃ生きられない。
だから.....と続く言葉は何ですか?

人は一人じゃ生きられない。
それは"何も食べずには生きられない"と同じだ。
仕方なく、人と関わる。
好きなことをする為には少し、社会に出れば余計に。
それは子供の頃、割と早い段階で気づく。
人は誰かと関わらなければ生きてはいけない。

人は独りを感じることは出来る。
人は独りだ、と呟く彼女は、悲しそう。
半年に一度、いや、一年に一度でもいい。
この人を感じながら生きていたい。
そう思える人に出会えたら、
それは、それだけで、特別なこと。

大切にすること、
愛すること、
それは、そう思えた上でのこと。

人は人を遠く感じるかもしれない。
それは悲しむべきことだろうか?

決して交わることのない線と線。
それを感じられれば、
指先から熱を奪う冬の風のように、
自分を感じ、クリアになる。

あの洗練されていく感覚が、自分は好きだ。
今日は、ある場所へ、ある目的で向かう。
電車での移動だ。
行きは、地上から地下へ。
用事を済ませ、帰り道。
窓から見える長い地下の壁。
しばらく見ていれば、
ようやく電車が地上に上がる。

一瞬にして白。
冬になると太陽は僕らを覗く。
斜陽の光が、探しものには助かるね。

どうしてか、それを今日、初めてみたような新鮮な気持ちだ。
知らなかった...と、呟いてしまいそうな感覚。
何度だって見ているのに、
何度だって感じてしまう。


どんなに様々なものを知った気になっても、
それを言葉や音や絵にしても、
それは、その在り処を示すだけ。
ただポケットに収めるだけ。

だから、何度だって感じる。
変な閉鎖的な勘違いさえ無ければ、
何度だって感動してしまうんだろう。



自由も、人への思いも、
それは自分自身が源ではない。
きっと今日のような、
不思議と現れてくれる外からものだろう。
きっと、誰も奪わない。
荷物をおいて席を立つ。
彼らはそういう役割を持っている。
私が与えたんじゃないけれど。

私は前に向けた目とは反対を見つめてる。
しかし彼らは奪えない。
それでも私は、注意する。
奪われないこと知っている。
それでも私は、注意する。
誰かに奪われてしまわないように。
誰が奪いにくるだろうか?
私は、急いで、席に着いて、一息、、、、、

私は、誰かに奪われた。
時々、自分を見失う。
自分の顔が、自分の姿勢が、自分の向いている先が、分からなくなる。
興味や欲に繋がるものに対して、感情が不感になっていく。
そんなことが、たまにある。

それは、単なる不具合だろう。
そういう場合にはいつも、改善の為に鏡をじっと見る。
顔を見つめ、そして、周りを見つめ、視点を交互に合わす。
そうすると不思議と落ち着くものだ。

視るということが大事なのかもしれない。

それを実行すれば、視界がクリアになり、
興味や欲、ライフスタイルの改善、向上心などプラスな想像と共に、停滞していた自己内に流れが生まれる。
そして、楽しいや嬉しいなど、そういった感情を意識できる。


さて、そんな思いついたことを書いてみる。
自分は正常か異常か・・・。
自分への問い。
その答えは、
あらゆる局面で起きる可能性があって、
常に自然と働いている機能である何かしらの対処、修正がきちんと施されない場合に、
色々な不具合が起こる。

自分への、この問い。正常か異常か。
それは精神疾患があるか無いかではなく
そして、自己の評価ではなく、
ある場面において起きた不具合が、何が影響したのか、どういう場面だったか、原因は何か、対処の仕方はどうしたらいいか、と、それを考える上で、”正常か異常か”は、必要な判断だ。
結果的に、自分は異常(エラーが起きた)だったと判断する。

こういうことを書いていると、常に間違っているかもしれないと警告が、心の内に鳴り響く。
そうなれば、焦り、心配になり、後ろめたさや劣等感を感じることになる。
そういう場合には、それを常に見続けようと心がけることで、思考の統一の乱れは免れる。

やはり、”視る”ことが大事なのだろう。



自分の好きな小説や漫画、音楽、絵など、
それらの製作過程や作品自体を見ると、必ず始終、思考の繋がりを感じる。
それらがまず好きか嫌いかの判断になる。

ただ、支離滅裂に見えるものでも、そこにはその人の経験や過去による思考の乱れがあり、
その人間の理解にまで目を向ければ、繋がりを意識することができる。
それは、パズルの欠けているピースを想像するようなイメージだ。

つまり、理解する意思があれば、大概のものは受け入れられる。
しかし、人はそこまで優しくはない。(音楽や小説など、お金を払って楽しむ為に得るのだから当然だ。)

中には、理解したいから複雑を得る人もいるが、そういう人は大衆音楽や大衆娯楽などには”普通”と捉え、興味を示さない。

少なくとも、理解できるものを、と、創作作品は意識しなければならなくて、
その為には単純なものを用いて、読みやすかったり、聞きやすかったりしなければならない。
理解したい人は、それを知らないから、単純を極めた複雑な作品を、好まなかったり・・・。残念なこと。



理解されようと思わない。と前置きをして語る人がいるけど、
そういう人は、自分以外理解できないものだと思っているか、理解される自信が無く人に放任しているか。
あ、でも一番多いのは、その言葉自体が嘘というパターン。
大体がこれだ。
理解されようと思わないなら、
メチャクチャな文法を使うとか、いっそ言葉を使わず叫び声で伝えればいいんだ。
自分が間違っていることが恐かったり、信じているものを失うのが恐かったり、
まぁそんなレベルのことがいたるところで氾濫中。おかしな話。


もう思いつくところはないし、疲れたからやめよう。
客観的に文章を見て、より理解できるようにちゃんと書き直すべきだろうか。
しかし、そんなサービスをするほど、親切じゃないし、理解したい人がいれば勝手に頑張ればいい。
結局、それに尽きる。笑


理解する意思があれば、ある程度、あるものは見れるし、
まぁ、人任せ。
ブログというのは、人からの理解なんて本当にオプションで、
本当は自分での別の理解や価値があってやってるんですよね。こういうのって。笑


よくブログのジャンルや書き始めに、自己満てあるけど、それ以外にどんな目的がある?(業者とか芸能人とか、見られること前提なら想像つくけど。)
後から読んで客観的に理解できないと知って、
それって恥ずかしい?間違ってると思っちゃう?
理解は全て、書いた本人の中にあるから気にすることなんて何も無い。


だと思いますよ。(特定の方へ)



あと最後に、よく言われるので・・・・。
「病んでません。心配は無用です。」
その行動は、何によるものだろうか。
生かされているままではなく、生きていることを知らなければ。
それこそが人間の尊厳ではないか。

人は人をどう見るか考えた時、
人は、単なる道具や玩具等、何かしら目的のあるモノでしかない。
人には、ペルソナが与えられ、誰かに、また社会に基づいた価値観や道徳に沿い行動をする。


生は素晴らしい
子供への愛は無償かつ美しい
優しさを持って人に接するのが大切
誰に教わったこと?
何の為に、存在する美?

確かに、美しいと感じる気持ちはあるだろう。
それが感情であり、多くの人にとってそれは好意的なものだろう。
しかし、それに対してルール化が成され、何かしらの目的が付随していることがある。
人は、誰か(社会、他人、会社、国)のモノとして、支配され、行動しているものがある。
それは至る場面で、日常で、それはある。



人間の尊厳とは何か。

人を支配しない。
人から支配されない。
他人が支配下に置かれることを望むなら、人間の尊厳を説こう。
他人が支配されている故に、自分へ行動の抑制をしようとするものなら、人間の尊厳を願おう。
願わくば、人間の尊厳を。
叶わぬものなら、いっそのこと殺してしまおう。